橋本定栄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/08 03:09 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動橋本 定栄(はしもと さだよし)は、江戸時代末期の公卿、梅宮社の神主。父・順福と同様、地下家でありながら従三位に叙され、公卿となった。
生涯
慶應元年閏5月12日(1865年7月4日)、56歳で従三位に叙され、公卿に列せられた[1]。明治2年7月8日(1869年8月15日)の百官廃止まで、非参議で有り続けた。
その後も梅宮社の神主であり、明治8年(1875年)4月8日に生活費の苦しさを初代京都府知事の長谷信篤に連名で訴えた史料が残っている[2]。しかし、それ以降の動向は不詳である。梅宮社宮司には、同年5月20日に山根温知が任じられており、それから間もなく死去したとみられる。
系譜
脚注
出典
- ^ 黒板勝美 & 國史大系編修會 1974, p. 566. 孝明天皇慶應元年条。
- ^ “生活費下賜再歎願書長谷京都府知事宛”. ジャパンサーチ. デジタルアーカイブジャパン推進委員会・実務者検討委員会. 2021年10月8日閲覧。
- ^ a b c 春日精之助 1906, p. 139.
参考文献
- 春日精之助編 『春日潜菴伝』、1906年。
- 黒板勝美; 國史大系編修會編 『公卿補任』《第五篇》 吉川弘文館〈新訂増補国史大系〉、1974年。
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