松浦久信 (平戸藩主)とは? わかりやすく解説

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松浦久信 (平戸藩主)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/10/20 01:23 UTC 版)

 
松浦 久信
松浦久信像(松浦史料博物館蔵)
時代 安土桃山時代
生誕 元亀2年(1571年
死没 慶長7年8月29日1602年10月14日
別名 源三郎、肥前守(通称
戒名 豊心院殿前肥州太守泰嶽常安居士
墓所 東京都墨田区吾妻橋の天祥寺
長崎県壱岐市芦辺町の安国寺[1]
官位 従五位下肥前守
氏族 松浦氏
父母 松浦鎮信西郷純堯
兄弟 久信、日高信喜室、信正、後藤広明室、西郷純成室、桃野某室、南総某室、角左衛門、三四郎
正室大村純忠娘・松東院
隆信、松浦信正室、信清、信辰、松浦忠広室、松浦信正継室
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松浦 久信(まつら ひさのぶ)は、安土桃山時代武将肥前国平戸藩2代藩主。官位従五位下肥前守平戸松浦氏27代当主。

略歴

元亀2年(1571年)、大名松浦鎮信の長男として誕生した。天正14年(1586年)頃、大村純忠の五女(後の松東院)と祝言をあげた。

文禄元年(1592年)、文禄の役で父と共に朝鮮へ出征した。慶長の役にも従軍し、駐留期間は計7年。各地を転戦し、平安道で敵の包囲を突破して父を救ったことがある。

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは、大坂にあって西軍に与して、伏見城攻め伊勢国安濃津城攻めに参陣した。しかし父鎮信が肥前神集島で開かれた去就会議に参加して東軍に加わることを決めたため、久信は戦後に処罰を受けることもなく、所領を安堵された。

父から家督を継いだ時期は判然としないが、長命であった祖父隆信が亡くなった慶長4年(1599年)から関ヶ原の戦いの翌年(1601年)までの間ぐらいだと考えられている。

慶長7年(1602年)、江戸に赴く途中、伏見で病に倒れた。鎮信は平戸の印山寺の僧に祈祷させて治癒を願ったが、久信はそのまま急死した。享年32。これに激怒した鎮信が、印山寺の僧を殺そうとしたため、僧侶が皆逃げ出して葬儀ができなくなったので、壱岐国から安国寺の僧が平戸に来て葬儀を行ったという。

久信の跡は長男の隆信が継いだ。

系譜

  • 父:松浦鎮信(1549年 - 1614年)
  • 母:西郷純堯の娘
  • 正室:松東院(1575年 - 1657年)、その、メンシア - 大村純忠の五女
    • 長男:松浦隆信(1592年 - 1637年)
    • 男子:松浦信清 - 家臣松浦信実の養子
    • 男子:松浦信辰
  • 生母不明の子女
    • 女子:松浦信正室
    • 女子:松浦忠広室
    • 女子:松浦信正継室

脚注

  1. ^ 拝所。久信夫妻の供養塔。

参考文献




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