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孝恵公主

(李玉荷 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/11 00:13 UTC 版)

孝恵公主
宗親一世
公主
続柄 中宗第一女
諱号 李玉荷
諱諺文=이옥하
諱発音=イ・オクカ
爵号 孝恵公主
称号諺文:효혜공주
称号発音:ヒョヘコンジュ
出生年 1511年6月13日旧暦5月18日
没死年 1531年5月6日旧暦4月20日
実父 中宗
実母 章敬王后
義父 金安老
配偶者 延城尉金禧
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孝恵公主(こうけいこうしゅ、ヒョヘコンジュ、효혜공주)は、李氏朝鮮中期の王族。本名は李玉荷(イ・オクカ、이옥하)。李氏朝鮮第11代国王中宗の長女で章敬王后の嫡女。第12代国王仁宗の同母姉。金安老の次男金禧の妻である。

生涯

1511年に誕生した。1515年5歳の時に母后章敬王后が薨じた。1521年1月22日金安老の次男・金禧が駙馬(夫)に決まり、翌年の1520年旧暦11月に婚礼を挙行した[1]。中宗は公主の義父になる金安老に要望を申し伝えた。

『中宗実録』巻第43 16年(1521年辛巳/正徳16年) 旧暦11月11日(己未)
原文
  • 己未傳曰成宗朝高原尉爲駙馬時招申從濩敎之曰公主生長豢養之中必不知尊奉舅姑之道勿待以嚴厲諄諄敎戒以納於順云今亦招金安老言此意可也安老之子將尙孝惠公主[2]
現代語訳
  • 己未日。“伝えに曰く、成宗代にて高原尉が駙馬なった際に申従濩を呼び出し命じた、「公主は養われる中だけで成長し、必ず舅姑を尊敬する道理を知らないことだろう。厳しくすることはなくとも、よく分かるように教え、付き従うように納めよ」”とあり今回も同様に金安老を呼び出しこの意を言って許可する。金安老の子(金禧)が孝恵公主を娶ることを許可していた。

1528年18歳のとき赤痢を発作し、中宗がこれを心配して義父の政敵沈貞を押し切って殿試から還宮して見舞った[3]1531年5月6日に娘を出産した後、産後の症状により21歳にて卒去した。旧暦閏6月15日に高陽月山大君墓の左の丘の礼葬された。公主の娘は名を金善玉といい、文定王后の弟尹元老の息子尹百源に嫁いだ。尹百源は明宗代に士林派を排撃し追放されたが、孝恵公主の義理の息子という理由で文定王后が諺書を下し難を逃れた。

家系

続柄 爵位 生没年 備考
父王 李懌 中宗 1488年 - 1544年
母后 章敬王后 1491年 - 1515年
義父 金安老 1481年 - 1537年
配偶者 金禧 延城尉 ? - 1531年
  長女 金善玉
婿 尹百源 文定王后の甥(王后の弟・尹元老の息子)

脚注

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