李宣威
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/11/14 13:05 UTC 版)
| 李宣威 | |
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| プロフィール | |
| 出生: | 1883年[1][注 1] |
| 死去: | 没年不明(1942年5月時点では存命) |
| 出身地: | |
| 職業: | 官僚 |
| 各種表記 | |
| 繁体字: | 李宣威 |
| 簡体字: | 李宣威 |
| 拼音: | Lǐ Xuānwēi |
| ラテン字: | Li Hsuan-wei |
| 和名表記: | り せんい |
| 発音転記: | リー・シュエンウェイ |
李 宣威(り せんい、1883年 – 没年不明)は、清末民初の官僚。字は律閑[2]、律閣[4]、津閣[5]。王克敏の側近的存在で、北京政府と中華民国臨時政府で王を補佐した。
事績
清末に日本へ留学し、1907年(光緒33年・明治40年)7月に東京高等工業学校電気科選科を修了・卒業した[6]。帰国後は郵伝部員外郎をつとめている[2]。
中華民国成立後の李宣威は、北京政府の財政部で秘書などを歴任したと見られる。1923年(民国12年)4月21日、全国財政討論委員会委員に任命され、11月23日には塩務署秘書をつとめた[7]。なお、財政総長から失脚した王克敏が馮玉祥に逮捕されそうになった際に、身一つで逃げる王を李が救援し、日本大使館の庇護を受けられるようにしたとされる[5]。この逸話については時期などに不審な点があるが[注 2]、いずれにしても、李が王の信任を受ける存在であったことをうかがわせる。
王克敏らが中華民国臨時政府を創設すると、李宣威もこれに参与する。1938年(民国27年)1月1日、行政部(総長:王克敏)内務局局長兼交通局局長に任命された[8]。2月11日、中国聯合準備銀行(聯銀)が創設されると、李は同銀行董事を兼務した[9]。3月12日、建設総署(署長:殷同)の新設に伴い、李は同総署副署長も兼任した[10]。
9月18日に行政部が廃止されると交通局は行政委員会(委員長:王克敏)に直属されたが、李宣威がそのまま交通局長に重任した[11]。9月22日、中華民国維新政府との合流を協議する中華民国政府聯合委員会が創設されると、李は同委員会秘書長も兼任している[12]。9月28日、建設総署副署長の兼務を解除された[13]。臨時政府最末期の1940年(民国29年)2月、華北電業株式会社(総裁:朱深)理事兼総務部副部長に就任した[3]。
1940年(民国29年)3月、臨時政府は汪兆銘政権に合流し、華北政務委員会に改組された。しかし、李宣威の任用情報は『華北政務委員会公報』等に見当たらず、この時点までに政府官職からは退いたと考えられる[注 3]。満蒙資料協会編『中国紳士録 第二版』(1942年5月20日発行)において、上述の華北電業株式会社理事兼総務部副部長に在任との記録がある[3]。
1942年以降における李宣威の動向は不詳となっている。
脚注
注釈
- ^ 橋川編(1940)、158頁は「1903年生まれ」としているが、経歴と明らかに符合しないため誤りと考えられる。尾崎監修(1940)を採用する。満蒙資料協会編(1942)、90頁は「光緒8年生」としており、西暦であれば1882年または1883年生となる(後者であれば尾崎監修と一致する)。
- ^ 張(2012)、189頁は、この出来事を1918年(民国7年)のこととしている(北京市档案館史料『王克敏等的簡歴』『教育、治安、内務総署零散档案集』に基づく)。しかし、直隷派に近い王士珍内閣の財政総長だった王克敏が、同じ直隷派の馮玉祥と対立関係にあったとは考えにくい。後年の1924年(民国13年)であれば、馮が北京政変を起こしており、当時の財政総長の王を逮捕するとしても不思議はない。
- ^ 同年6月30日、臨時政府行政委員会交通局を改組した華北政務委員会政務庁交通局において王潤貞が局長に任命された。
出典
- ^ a b 尾崎監修(1940)、338頁。
- ^ a b c 橋川編(1940)、158頁
- ^ a b c 満蒙資料協会編(1942)、90頁。
- ^ a b 劉ほか編(1995)、1286頁。
- ^ a b 張(2012)、189頁。
- ^ 東京工業大学編『東京工業大学一覧 昭和十二至十三年』、251頁。
- ^ 中華民国政府官職資料庫「姓名:李宣威」
- ^ 「政府組織大綱発表」『同盟旬報』2巻1号通号20号、昭和13年1月上旬号(1月20日発行)、同盟通信社、26頁。なお、「李専威」と誤記されている。
- ^ 実業之世界社編輯局編『財界三十年譜 下巻』実業之世界社、1940年、1140頁。
- ^ 臨時政府令、令字第145号、民国27年3月12日(『政府公報』〈臨時政府1937年-1940年〉第8号、民国27年3月14日、8頁)。なお、公報原文では「3月11日」と記載されているが、明らかに誤りのため修正する。
- ^ 「臨時政府重要職員表(八月現在)」東亜同文会業務部編『新支那現勢要覧 第二回(昭和十五年版)』、945頁。
- ^ 「中華民国政府聯合委員会成立」『時事年鑑 昭和十四年版』時事通信社、795頁。
- ^ 臨時政府令、令字第275号、民国27年9月29日(『政府公報』〈臨時政府1937年-1940年〉第37号、民国27年10月3日、4頁)。
参考文献
- 橋川時雄編『中国文化界人物総鑑』中華法令編印館、1940年。
- 尾崎秀実監修「アジア人名辞典」『アジア問題講座 12』創元社、1940年。
- 満蒙資料協会編『中国紳士録 第二版』満蒙資料協会、1942年。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
- 張同楽『華北淪陥区日偽政権研究』生活・読書・新知 三聯書店、2012年。 ISBN 9787108038029。
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