李宝 (北魏)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 李宝 (北魏)の意味・解説 

李宝 (北魏)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/17 07:18 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

李 宝(李寶、り ほう、407年 - 459年)は、西涼から北魏にかけての人物。は懐素、小字は衍孫。本貫隴西郡狄道県。西涼の武昭王李暠の孫にあたる。

経歴

西涼の驍騎将軍・祁連酒泉晋昌三郡太守の李翻(字は士挙)の子として生まれた。420年嘉興4年)、伯父の李歆北涼沮渠蒙遜に滅ぼされると、李宝は姑臧に移住した。1年あまりして、母の兄の唐契と唐和に従って伊吾に逃れ、柔然に臣従した。441年太平真君2年)、北魏の太武帝奚眷を派遣して酒泉の沮渠無諱を討たせ、沮渠無諱が城を棄てて遁走すると、李宝は伊吾から敦煌に帰って、城府を修繕して、祖業を取り戻そうとした。442年(太平真君3年)、弟の李懐達を平城に派遣して北魏への帰順を表明した。太武帝は懐達を散騎常侍・敦煌郡太守に任じ、別に使者を派遣して李宝を使持節・侍中・都督西垂諸軍事・鎮西大将軍・開府儀同三司・領護西戎校尉・沙州牧に任じ、敦煌公に封じた。李宝はそのまま敦煌に駐屯した。444年(太平真君5年)、入朝して平城に留まり、外都大官に任じられた。後に鎮南将軍・并州刺史として出向した。また平城に帰還すると、内都大官に任じられた。文成帝の初年、司馬文思に代わって懐荒に駐屯し、鎮北将軍の号を受けた。459年太安5年)9月、死去した。享年は53。は宣といった。

子女

6人の男子があった。

  • 李承
  • 李茂(432年 - 502年、字は仲宗、鎮西将軍・敦煌公、長安鎮都将、西兗州刺史、光禄大夫、敦煌侯、弟の李沖が高位に上ると、定州の中山に隠居して悠々自適に暮らした)
  • 李輔(436年 - 482年、字は督真、中書博士、司徒議曹掾、娘を咸陽王元禧の妃としてとつがせた、鎮遠将軍・潁川郡太守)
  • 李佐
  • 李公業(早逝)
  • 李沖

伝記資料

  • 魏書』巻39 列伝第27
  • 北史』巻100 列伝第88



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「李宝 (北魏)」の関連用語

李宝 (北魏)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



李宝 (北魏)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの李宝 (北魏) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS