李周衡
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李 周衡(イ・ジュヒョン、朝鮮語: 이주형、1905年[1]または1906年1月6日 - 1951年8月)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の教育者、政治家。制憲韓国国会議員。
経歴
慶尚南道密陽郡出身。徽文高等普通学校(現・徽文高等学校)、京城帝国大学予科・法文学部史学科卒。普成中学校教員、木浦高等女学校校長、馬山中学校校長、密陽中学校校長を経て、私立正進学校を経営したが、戦中に廃校された。光復後は慶尚南道米軍政顧問、独促国民会密陽郡支部長、過政立法議院議員、密陽中学校創設者・校長、国会議員を務めた。朝鮮戦争の際北朝鮮に拉致された[2][1]。
1962年4月28日の東亜日報の連載によると、1951年6月の原因不明の伝染病にかかった後、同年8月下旬ごろに平壌付近で死去した[3]。
脚注
- ^ a b “근현대인물자료 < 한국 근대 사료 DB”. db.history.go.kr. 2025年4月17日閲覧。
- ^ “대한민국헌정회”. www.rokps.or.kr. 2025年4月17日閲覧。
- ^ “[동아일보]납북인사 북한생활기 - 죽음의 세월 27회 1962. 4. 25 - 6·25전쟁납북인사가족협의회”. www.kwafu.org (2006年12月14日). 2025年4月17日閲覧。
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