木尾虎之助
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/13 03:00 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動木尾 虎之助(このお[1] とらのすけ、1879年(明治12年)11月18日[2] – 1956年(昭和31年)12月23日[1])は、衆議院議員(憲政会)。弁護士。
経歴
鹿児島県薩摩郡入来村(現在の薩摩川内市)出身[2]。1902年(明治35年)、日本法律学校(現在の日本大学)を卒業し、弁護士試験に合格した[2]。東洋大学講師、警視庁警察官消防官練習所講師を経て、1907年(明治40年)に東京市に弁護士事務所を開いた[2]。翌年、朝鮮半島に渡り、漢城府(のち京城府)に弁護士事務所を開き、1922年(大正11年)には京城内地人弁護士会会長に選出された[2]。
1916年(大正5年)、衆議院補欠選挙で当選を果たした。
その他に朝鮮鉱業新報社社長を務めた[2]。
弁護士として
李氏朝鮮時代に王女が両班の洪氏に降嫁するのにあたり、朝鮮国王は洪氏に荷衣三島(荷衣島[3]、上苔島、下苔島の三島。現在は荷衣島は全羅南道新安郡荷衣面、上苔島と下苔島は全羅南道新安郡新衣面に属する。上苔島と下苔島は干拓で接続され、両島を合わせて新衣島と呼ばれる。)の徴税権を3代まで与えた。しかし洪氏は4代目以降も徴税を続け、一方で政府も徴税を再開したため、島民の不平は高まった。その後、洪氏は島が洪氏の所有であるとの証明書を取得し、島を日本人に売却した。やがて島民と地主との間に訴訟が起こると、木尾は島民の弁護を引き受け、勝訴に導いた。島民は顕彰碑を建立し、木尾に感謝を示した[4]。
1919年の三・一運動の際には、花井卓蔵・大久保雅彦らとともに、騒擾罪に問われた孫秉煕ら指導者の弁護にあたった[5]。
著書
- 『警察官用 帝国憲法論』(有斌館、1908年)
脚注
参考文献
- 原田道寛『大正名家録』二六社編纂局、1915年。
- 『財界二千五百人集 満蒙及朝鮮篇』財界二千五百人集編纂部、1934年。
- 衆議院・参議院編『議会制度七十年史 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1962年。
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