朝鮮民主主義人民共和国英雄
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朝鮮民主主義人民共和国英雄 | |
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朝鮮民主主義人民共和国による賞 | |
種別 | 勲章 |
状態 | 運用中 |
歴史・統計 | |
創設 | 1950年6月30日 |
序列 | |
上位 | なし |
下位 | 朝鮮民主主義人民共和国労力英雄 |
朝鮮民主主義人民共和国英雄(ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこくえいゆう、朝鮮語: 조선민주주의인민공화국영웅)は、朝鮮民主主義人民共和国における最高位の称号である。主に国家安保に寄与し、社会主義体制の発展に貢献した者へ授与される。通例、授与の際には勲章とともに感状や国旗勲章も贈られる。略称は共和国英雄(공화국영웅)。
概要
朝鮮戦争勃発直後の1950年6月30日、最高人民会議において制定された。最高人民会議常任委員会は政令を通じて英雄称号を制定するとともに、英雄称号受勲者に国旗勲章第一級と金星メダル、最高人民会議常任委員会の表彰状が授与されることに決定した。規定には、個人的または集団的に英雄的偉勲を樹てた者に与えられ、英雄称号を授与または剝奪できるのは最高人民会議常任委員会だけである。すでに英雄称号を受けた者が再び英雄称号を受け取った場合は、第二の金星メダルと表彰状が授与され、故郷に功勲事績が刻まれた銅像が建立された。また本人が死亡した場合にも授与された。英雄称号受勲者には金銭的恩恵と特典が与えられ、「国旗勲章第一級に関する規定」により年金を規定額の2倍で受けられ、「国旗勲章第一、二、三級に関する規定」に含まれるすべての特典と権利を享受できた[1]。
1950年7月15日、人民軍軍官、下士官12名に初めて英雄称号が授与された。彼らは戦争初期の戦闘で他の部隊や軍人より卓越した戦功を立てた人物であり、彼らの戦功を大々的に宣伝することで、彼らを模範として他の軍人達の戦闘意志を高揚させるためであった[2]。戦争中に英雄称号を受けた者は491名で、その中には中国軍の10名、鉄道省などで勤務する労働者、技術者、機関士など戦争遂行に貢献した民間人も含まれていた[3]。
1951年2月20日、金日成は人民軍総政治局長に戦闘英雄を紹介・宣伝する文を出版物に多く掲載するよう指示した。戦闘英雄の記述について、彼らを特出した人物として描写しないで生活事情、成長過程、入隊動機、戦闘過程を事実通りに記述することで、彼らを平凡な労働者・農民の子供であることを強調するように指示した。共和国英雄が平凡な人々であることを強調することで、他の軍人も彼らのように英雄になれるのだと積極的に宣伝した[3]。
戦争中、英雄称号を二度受けた二重英雄も排出された。『労働新聞』で報道された二重英雄は方虎山師団長、金基宇下士官、李学文偵察指揮官、白サスン(백사순)重器中隊長の4名であった[3]。
北朝鮮内閣首相である金日成は、朝鮮戦争の休戦協定が締結された翌日の1953年7月28日を始めとして生涯で3度この勲章を受章しており、三重英雄と称される。また、朝鮮労働党総書記である金正日も、自身の40回目の誕生日である1982年2月16日を含め生涯で3度受章したため、金日成と同じように三重英雄と称される。
初期は朝鮮人民軍中将の姜健など朝鮮戦争で戦死した者へ限られ贈られていたが、次第に対象が広がり、金策や金容淳へは死後追贈、白鶴林は同称号を二度贈られた二重英雄となった。また、朝鮮戦争で中朝連合軍を指揮した彭徳懐やユーゴスラビア大統領ヨシップ・ブロズ・チトー[4]などの外国人に贈られた例もある。
おもな受賞者
脚注
参考文献
- 《세계일보》 (2004.4.11) 최운섭의 평양 엿보기/ 영웅만들기 성행…주민독려 안간힘
- 《로동신문》 (2003.8.31) 빛나는 영웅시대
- 《조선일보》 (2001.7.15) NK리포트/ ‘영웅’들이 너무 많다
- 김일성, 〈공화국영웅 안동수의 유가족들과 한 담화〉 (1994년 4월 11일)
- 김선호 (2025). “북한군의 표창제도 형성 연구”. 민족문화연구 (고려대학교 민족문화연구원) 108: 189-228 .
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