李永鎬とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 李永鎬の意味・解説 

李永鎬

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/13 05:03 UTC 版)

李永鎬
各種表記
チョソングル 리영호
漢字 李永鎬、李英鎬
発音: リ・ヨンホ
日本語読み: り えいこう
ローマ字 Lee Yong-Ho
テンプレートを表示

李 永鎬(リ・ヨンホ、리영호)は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の満州派に属する軍人政治家。李英鎬とも表記される。朝鮮戦争開戦時の第3師団長。

経歴

1909年、慶尚道(北道か南道かは不明)に生まれる。

1936年2月、東北人民革命軍第4軍第2師交通員。

1938年、抗日パルチザン東北抗日連軍第7軍第2師第7団政治委員。

1940年3月、東北抗日連軍第2路軍第2支隊第2大隊政治委員。日本軍の討伐を逃れてソ連に入り、同年12月に党幹部会議が開かれ、北野営党臨時委員会宣伝委員。

1942年、第88特別旅団第3大隊第5中隊副中隊長・上尉。

第2次世界大戦終戦後は帰国し朝鮮人民軍の創設に参加。1946年、保安幹部訓練所第3所長[1]。後に保安幹部訓練所が師団に改編されると、第2師団第6連隊長[2]。1947年、李権武がソ連軍顧問と衝突して兵士に降格した際に第1師団第1連隊長を務めた[3]。1948年、第3師団長[4]。第3師団は当時の人民軍最精鋭師団であり国境開戦大田の戦い釜山橋頭堡の戦いに参加した。第3師団長としての功績で朝鮮民主主義人民共和国英雄第1級国旗勲章を受章した[5]。しかし国連軍の抵抗で消耗して1950年9月の反抗作戦で第3師団は壊滅し、李英鎬は帰還した。帰還後は第7軍団長等を歴任した。

1953年、民族保衛省副相。

1954年、海軍司令官に就任。

1954年3月、朝鮮人民代表団副団長として中華人民共和国を訪問。

1956年4月、朝鮮労働党中央委員会委員(第3回党大会)。

1957年5月、駐中国大使。

1959年12月、朝鮮人民軍中将

1961年9月、労働党中央委員会委員(第4回党大会)。

1962年4月、中国大使を辞任。5月、労働党中央委員会行政部長。10月、最高人民会議第3期代議員当選、最高人民会議常任委員会委員。

1965年、朝鮮人民軍大将

1967年、最高人民会議常任委員会副委員長。

軍部強硬派であったため1970年頃に粛清。

脚注

参考文献




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「李永鎬」の関連用語

李永鎬のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



李永鎬のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの李永鎬 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS