新免貞弘
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時代 | 戦国時代 - 江戸時代初期 |
生誕 | 天文11年(1542年)[1] |
死没 | 慶長9年8月29日(1604年9月22日)[1] |
官位 | 備中守[1](受領名) |
主君 | 新免宗貞→宗貫 |
氏族 | 新免氏 |
父母 | 父:新免貞重[2] |
兄弟 | 宗貞[1]、貞弘 |
妻 | 戸国駿河守の娘[3] |
子 | 貞頼[3]、重頼[3]、貞房[3] |
新免 貞弘(しんめん さだひろ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。美作国吉野郡下町村[注釈 1]の竹山城を本拠地とする国人・新免氏の一族。父は新免貞重。兄の新免宗貞やその子である新免宗貫に仕える。
生涯
天文11年(1542年)、美作国吉野郡下町村[注釈 1]の竹山城を本拠地とする国人である新免貞重の次男として生まれ[1]、兄の新免宗貞とその子である新免宗貫の2代に仕えた[1]。
永禄年間、美作国吉野郡倉敷を本拠地とする国人・江見秀俊との数刻にわたる合戦において、江見秀俊を討ち取った[1][4]。4月8日に兄・宗貞は貞弘の武功を賞して感状を発給して恩賞を与えることを約束し[1][4][5]、6月10日に大野東分を加増分として貞弘に与えている[6][7][8]。
慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原の戦いにおいて、新免宗貫が宇喜多秀家に従っていたが敗れ、新免氏は所領を全て失うこととなった[9]。新免宗貫は一族である新免無二斎[注釈 2]が仕えていた縁を頼ってか黒田長政に仕えて筑前国福岡に移り住んだ[11]が、貞弘は美作国に残り、吉野郡川上村[注釈 3]に居住した[3]。
系譜
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d e f g h i 美作古簡集註解 1976, p. 79.
- ^ 美作古簡集註解 1976, pp. 78–79.
- ^ a b c d e f g h i j 美作古簡集註解 1976, p. 82.
- ^ a b 渡邊大門 2011, p. 265.
- ^ 『美作古簡集註解』巻之二、年不詳4月7日付け、新免備中守(貞弘)殿宛て、(新免)宗貞感状写。
- ^ 美作古簡集註解 1976, p. 78.
- ^ 渡邊大門 2011, pp. 265–266.
- ^ 『美作古簡集註解』巻之二、年不詳6月10日付け、新免備中守(貞弘)殿宛て、(新免)宗貞宛行状。
- ^ 渡邊大門 2011, p. 270.
- ^ 渡邊大門 2011, p. 268.
- ^ 渡邊大門 2011, pp. 270–271.
参考文献
- 矢吹金一郎 編『美作古簡集註解』名著出版、1976年11月。
国立国会図書館デジタルコレクション
- 渡邊大門『戦国期 浦上氏・宇喜多氏と地域権力』岩田書院〈中世史研究叢書19〉、2011年9月。
- 渡邊大門「美作国新免氏に関する一考察」『戦国期 浦上氏・宇喜多氏と地域権力』、2011年9月、255-276頁。
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