新たな日本人チーム結成の動き
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/08 02:46 UTC 版)
「日米対抗ローラーゲーム」の記事における「新たな日本人チーム結成の動き」の解説
日本人チーム結成がほとんど不可能となった状況直後から選手募集選考で合格したメンバーの1人、森文雄は自らチームを作る意志を固め、角田誠や佐々木陽子、河野一男ら選考試験で合格したメンバーとの縁を保ちながら、一方では東京12チャンネルの宮本アナウンサー(ゲームに詳しいので後にドクター宮本と称された)電通の間宮、キョードー東京などローラーゲームの関係機関とも縁を切らないようにしていた。 森は連日後楽園ローラースケートリンクに通いつめて練習を繰り返すと共にチームのメンバーに加わりそうな人を物色しては「一緒にやらないか」と声を掛けていた。幸いなことにローラーホッケーやローラースピード、ローラーフィギアの滑走スタイルが違うようにローラーゲームの滑走スタイルも違っていたので誘いの声は掛けやすかった。 後にプロとなる遠藤や川島、若松、和泉、金沢ら20名程度をこの時期にメンバーとして集めている。後楽園以外にも豊島園、船橋ヘルスセンター、よみうりランド、東神奈川などのローラスケートリンクを使って練習を繰り返しながらメンバー探しを続けていたが女性スケーター志願者は1人も集めることができなかった。 この頃の女性は「殴る、蹴る、ぶっ飛ばす」をふんだんに盛り込んだスポーツに自ら身を投じてみようとする人はほとんどいなかった。女子プロレスでさえ極端にマイナーな時代である。しかし、女性がいないと成り立たないスポーツだけに女性メンバーゼロというのは深刻な問題であった。
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