政治的独立とジギスムント・フォン・ルクセンブルクとの協力
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トレンティーノ司教の政治的独立を維持するため、アレクサンデルはルクセンブルク家のローマ王・ハンガリー王ジギスムントに接近した。最終的にアレクサンデルはブダに赴き、ここから遠隔でトレンティーノを支配するようになった。1431年、ジギスムントが神聖ローマ皇帝として戴冠するためローマ遠征に出ると、アレクサンデルはこれに随行した。しかしアレクサンデル自身はローマまで行かずミラノにとどまった。ジギスムントは1433年にローマで皇帝戴冠を果たすと、ミラノでイタリア王の戴冠を行った。 また1435年、ジギスムントの後ろ盾を受けてオーストリア公フリードリヒ4世との紛争に終止符を打った。アレクサンデルはフリードリヒ4世の宗主権を認める代わりに、トレンティーノ司教領の統一性を認めさせることに成功したのである。しかし、アレクサンデルの活発な対外活動や役職へのポーランド人任用により、地元の聖職者の反乱が発生し、アレクサンデルはトレンティーノを除くほとんどの領地における権力を失った。 1438年、アレクサンデルはミラノ公フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティと同盟した。この同盟はアレクサンデルを1440年から1441年のミラノ・ヴェネツィア戦争に巻き込んだが、彼にとっての益はまったく産まなかった。
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