支流舟(船)橋氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 15:33 UTC 版)
武家舟橋氏…清原宣賢の三男主水等貴(吉田牧庵吉賢)は、始め相国寺僧侶であったが還俗し牧庵と号し、医術で世に知られた。細川藤孝との所縁(等貴は藤孝の母方のおじ)から丹後国田辺に住し、子孫は舟橋を称した。吉賢から4代後の希賢が桜田館で徳川綱豊に仕えて奥詰儒者となり、宝永元年(1704年)の綱豊(家宣)の江戸城入りに従い旗本となった。 医家船橋氏 …舟橋秀賢の末男・長庵元理は医術を業とし、その子玄晧が江戸幕府に召し出され、奥医師、御匙(将軍御典医)を勤めた。子孫も同様に奥医師、御匙等をを勤めた。
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