指宿海軍航空基地
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指宿海軍航空基地 Ibusuki Naval Air Base(closed) |
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鹿児島県指宿市にある指宿海軍航空基地の慰霊碑
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IATA: ? - ICAO: ? | |
概要 | |
国・地域 | ![]() |
所在地 | 鹿児島県指宿町(現・指宿市) |
種類 | 軍用 |
所有者 | 大日本帝国 |
運営者 | 大日本帝国海軍 |
開設 | 1944年 |
閉鎖 | 1945年 |
座標 | 北緯31度15分40秒 東経130度39分40秒 / 北緯31.26111度 東経130.66111度座標: 北緯31度15分40秒 東経130度39分40秒 / 北緯31.26111度 東経130.66111度 |
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指宿海軍航空基地(いぶすきかいぐんこうくうきち)は、鹿児島県指宿市東方の田良浜にかつて存在した大日本帝国海軍の航空基地である。
目的
指宿海軍航空基地は、敵の潜水艦を捜索する水上偵察機の基地として昭和17年5月から昭和18年春にかけて建設された。飛行場兵舎は最後まで完成には至らなかった。第二次世界大戦末期、沖縄決戦に賭けていた海軍だったが、敵の沖縄上陸以来特攻機の殆どを使い果たした。結果、敵の潜水機を偵察するために製造され、攻撃力のない水上偵察機や練習機までもを特攻機として使用した。開隊は昭和19年1月1日、第四五三海軍航空隊の基地となり、同年、12月25日、第九百五十一水上偵察機・零式観測機で策敵訓練及び対潜哨戒・船団護衛等の任務に従事していた。参加した水上機は、零式水偵(三座)・九四式水偵(三座)・零式観測機(二座)の44機で82人の戦死者を出した。出撃期間は、菊水四号作戦の4月29日から7月3日までの菊水十号作戦までだった。水上機特攻の最大の狙いは、夜間の月明かりを乗じて出撃し、沖縄周辺海域に集まっていた米軍艦船、輸送船を撃滅し、機動部隊の補給を絶つことだった。零式水偵は800キロ爆弾を、九四式水偵は五百キロ爆弾を、零式観測機は250キロ爆弾を搭載し、重量過多のため片道燃料で飛び立った。昭和20年5月5日、マリアナからのB29(11機)の報酬攻撃を受けた。5月5日の指宿大空襲において焼失した。この戦争によって戦没者・殉職者192名に至る[1]。
歴史
田良地区の移転
指宿海軍航空基地は、昭和19年1月1日に開隊された。当時、飛行場を建設するために、海軍省は田良浜の住民137戸を昭和17年3月から昭和17年6月まで4か月間をかけて強制移転させた。住民は、南迫45戸・十町田良40戸余り・湯之里12戸・潟口海軍官舎付近7戸・湊北稲荷神社付近4戸・湊南劇場裏3戸・柳田公民館付近1戸・大牟礼東2戸等町内10か所に住むように命じられた[2][3]。移転経費については、海軍省より支払われた[4]。
指宿海軍航空基地設置目的
指宿海軍航空基地は、水上機の基地として、設置されたのだが、この水上機特攻を設置した大きな目的は、指宿基地を月明の夜間に敵地に出撃する役割があった。
配備されていた機種

終戦から20年が経った基地跡の航空写真。
1957年9月に錦江湾国立公園[5]の一部となった基地跡の敷地では、1961年に市営野球場が整備され、1965年3月には指宿国民休暇村さつなん荘の事業が開始された[6]。
国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成

国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成
脚注
参考文献
外部リンク
- 指宿海軍航空基地のページへのリンク