払田柵と雄勝城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/20 07:48 UTC 版)
記紀から推定される造営地は、雄勝城と同じ奈良時代の城柵遺跡である払田柵跡付近が妥当であるため、払田柵が雄勝城であろうとの説が提唱された時期もあったが、年輪年代法による分析結果では払田柵の造営時期は9世紀初頭と推定されたため、払田柵を天平宝字年間に造営された雄勝城とする説には無理が生じた。しかしながら、払田柵の遺構はその規模において陸奥国府が置かれたとされる多賀城を遥かに凌ぐものであることから、払田柵が記紀にある出羽国に設置された1府2城のうちの1城である雄勝城であろうとの見方は尚且つ妥当と認められており、また記紀にも時折郡里が賊に襲われて郡府の再建が行われた記録も見られることから、現在では雄勝城は当初の造営地から9世紀初頭に払田柵跡の地に移設されたとの推定に至っている。
※この「払田柵と雄勝城」の解説は、「雄勝城」の解説の一部です。
「払田柵と雄勝城」を含む「雄勝城」の記事については、「雄勝城」の概要を参照ください。
- 払田柵と雄勝城のページへのリンク