悲田院 (京都市東山区)とは? わかりやすく解説

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悲田院 (京都市東山区)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/23 00:02 UTC 版)

悲田院

所在地 京都市東山区泉涌寺山内町35
位置 北緯34度58分45.8秒 東経135度46分36.7秒 / 北緯34.979389度 東経135.776861度 / 34.979389; 135.776861座標: 北緯34度58分45.8秒 東経135度46分36.7秒 / 北緯34.979389度 東経135.776861度 / 34.979389; 135.776861
宗旨 真言宗
宗派 泉涌寺派
本尊 阿弥陀如来
創建年 延慶元年(1308年
札所等 泉山七福神巡り6番(毘沙門天
法人番号 3130005002216
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悲田院(ひでんいん)は、京都市東山区にある真言宗泉涌寺派の寺院。泉涌寺塔頭のひとつで、本尊阿弥陀如来泉山七福神巡り6番(毘沙門天)札所。

歴史

悲田院とは身寄りのない子供や老人・貧しい人を収容する福祉施設であるが、平安京にはその悲田院が東西の二つあった。しかし、やがて両方とも消滅してしまった。

延慶元年(1308年)、無人如導が一条安居院に天台真言浄土の四宗兼学の寺を創建する。そこにかつての福祉施設であった西悲田院の名跡を引き継いで寺院名を悲田院とした。

室町時代になると後花園天皇は悲田院を勅願寺とした。この縁によって当寺の歴代の住職は、代々天皇綸旨を賜わって、御所への紫衣参内が許された。後花園天皇の崩御の際には当寺で葬儀や荼毘が行なわれた。

正保2年(1645年)、如周恵公が摂津国高槻藩永井直清の帰依を受け、悲田院を現在地に移転させる。以後、高槻藩の庇護を受けて栄える。

1885年明治18年)、泉涌寺塔頭寿命院と合併し、現在に至る。

寺には快慶作と伝えられる宝冠阿弥陀如来坐像や逆手の阿弥陀如来立像があり、また土佐光起土佐光成父子による土佐派や、橋本関雪襖絵がある。

文化財

京都府指定文化財

  • 有形文化財
    • 木造阿弥陀如来坐像(彫刻) - 像内にアン(梵字)アミタ仏等の銘がある。2022年(令和4年)3月22日指定[1]

住所

  • 京都府京都市東山区泉涌寺山内町35

参考文献

  • 泉涌寺『御寺 泉涌寺』便利堂

脚注

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