志波城造営と払田柵跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 23:59 UTC 版)
「日本の古代東北経営」の記事における「志波城造営と払田柵跡」の解説
延暦22年2月、越後国の米と塩が造志波城所に送られると、翌月には造志波城使坂上田村麻呂が桓武天皇に辞見している。延暦23年5月には陸奥国が志波城と胆沢郡家との間に郵駅を置くべきことを朝廷に申請して許されていることから、その頃までに志波城の造営がおよんだものと思われる。 同じ頃、出羽国の北部に近年では第二次雄勝城とみる説が有力な払田柵跡と呼ばれる城柵がつくられた。横手盆地の南にあった第一次雄勝城を、胆沢城・志波城の造営にあわせて、規模を拡大して北進させたものとみられる。 延暦23年11月、秋田城のもとに秋田郡が置かれ、城司が民衆を直接支配する城制から、郡司を介して支配する郡制に移行した。秋田城の大改修は、この措置を契機として行われたと考えられている。
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