廬山寺通
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/09 23:53 UTC 版)
廬山寺通[1](ろざんじどおり)は、京都市内の東西の通りの一つ。盧山寺通、蘆山寺通、芦山寺通とも表記される。東は大宮通から西は北区平野の木辻通まで。全長は約2km[2]。
- ^ 京都市内の通りの名称は「通」となっていて「り」を送らない。例外として道路標識では「通り」として送る表記を採用しているが、印刷資料で送るものは極めて珍しい。京都市内の通り#表記の差異参照
- ^ 『続・京都の大路小路』 (1995), p. 228-229, 「廬山寺通」.
- ^ 「今寺町広小路上ル所にある廬山寺は元安居院の北大宮の西に有故に通の名とす」『京町鑑』「廬山寺通」の項(京町鑑 横《京都府立総合資料館所蔵・京都地誌閲覧システム》)
- ^ 例えば、平安京オーバーレイマップでは当該街路を廬山寺通と明記する。一方、『京都大事典』 (1984), p. 994, 廬山寺通では「途中千本通・紙屋川間は中断」とする。
- ^ 「東千本町、西千本町、歓喜町の3町の住民有志が、通りを「鉾参通(ほこさんどおり)」と命名した。」(京都新聞2003年3月14日)
- ^ 京都市『「京都の文化的景観」調査報告書』(pdf)2020年 。
- ^ 『洛中絵図』は、江戸幕府大工頭中井家(中井役所)で作成した京都の実測地図。中井家では寛永14年(1637年)に最初の京都の実測地図(宮内庁書陵部蔵「洛中絵図」)を作成しており、その少し後の実測図が京都大学附属図書館に所蔵されている(伊東宗裕『京都古地図めぐり』京都創文社、2011年。)。京都大学附属図書館蔵の「洛中絵図」は、上杉和央、岩崎奈緒子『京都古地図案内』(京都大学総合博物館)によれば、中井家が幕府に提出した清書絵図の写しとされ、寛永19年(1642年)の姿とされる。京都大学附属図書館蔵の「洛中絵図」は京都大学貴重資料アーカイブ寛永後萬治前洛中絵図で閲覧可能。
- ^ 『京都大事典』 (1984), p. 994, 廬山寺通.
- ^ 京都市都市計画基本図(縮尺1/3,000)(昭和4年)など。 - 近代京都オーバーレイマップ-立命館大学アート・リサーチセンター(2022年10月10日閲覧)
[続きの解説]
「廬山寺通」の続きの解説一覧
- 1 廬山寺通とは
- 2 廬山寺通の概要
固有名詞の分類
- 廬山寺通のページへのリンク