常樂寺_(岐阜県東白川村)とは? わかりやすく解説

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常樂寺 (岐阜県東白川村)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/11/04 10:33 UTC 版)

常樂寺
所在地 岐阜県加茂郡東白川村字・神土村平
山号 安泰山
宗派 臨済宗妙心寺派
本尊 聖観世音菩薩
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常樂寺(じょうらくじ)は、岐阜県加茂郡東白川村字・神土村平にかつて存在した臨済宗妙心寺派の寺院。山号は安泰山。

明治3年(1870年苗木藩の廃仏毀釈の際に、廃寺となった。

歴史

創建時期や由緒は不詳であるが、当初は常樂院と称し、飛騨国益田郡御厩野にあった真言宗大威徳寺の末寺として開創されたと伝わる。

元和元年(1615年)、初代苗木藩主の遠山友政は、苗木城の傍らに菩提寺として雲林寺を開基した。

遠山友政は、その後、領内に雲林寺の末寺を創建したり、従来から存在した他宗派の寺院を臨済宗妙心寺派に改宗して末寺とした。常樂寺は改宗されて末寺となった寺院の一つである。

その後の経緯は、古記録が処分されたため不明である。檀家は、神土と越原の両集落で500戸程であった。

文化元年(1804年)3月、火災のため本堂の他、大半の建物を焼失した。

当時の模様については「神土村庄屋留書」の中に次のように記されている。

當村 常樂寺焼失の事

文化元 甲子年 三月廿六日 夜九ッ半頃に 風呂塲より 出火仕り、方丈 並 庫裡 物置 長屋 隠居屋 共に残らず焼失仕り候、尤も 本屋 脇家 共 三家 残り候、取遺し申す品は 印判・御本尊様 三尊・十六善神図 一幅・大般若経 百巻・半鐘・過去帳・位牌あらまし、右代官 井澤孫兵衛様 正嶽院様 御両所へ届け申し候。

夫より 文化五 戌辰年 四月十一日に 御普請 御届け仕り候て、同月十六日に 入佛供養 相勤め申し候、御代官 小池小左衛門様

明治3年(1870年)9月に苗木藩の廃仏毀釈が断行され、領内の各寺院に対して厳しく廃寺と還俗が申し渡された。

十一世の自董は、やむなく還俗し、安江良左衛門正常に改名した。

位牌は常樂寺の前庭で焼き棄てられ、仏具は他藩領の寺院へ売り払われた。

大般若経十六善神像は、東白川村の某家にて保管されている[1]

明治3年(1870年)10月1日、梵鐘は鐘楼と共に100両余で、尾張国丹羽郡前飛保村の深妙寺に売却された。

賣渡申一札の事 

一 釣鐘 壱口 長 五尺五寸 差口 二尺五寸七分 但 釣鐘堂付

右は 去 弘化四 丁未年、御願済の上 鋳直し候ところ 今般 本寺 雲林寺 始め 御廃寺につき、両村 壇中の者一統 熟談の上、貴寺へ賣渡申し、代金残らず受取申す處 相違御座無く候、勿論 當 御藩は申すに及ばず 壇中の者 壱人たりとも 彼是申す間敷く候、後日のため 賣払申す一札、依って如件

明治三 庚午年 閏 十月朔日 世話人 中仙道 今渡村 常介殿

廃寺の時は、本堂は縦五間・横七間、庫裏は縦五間・横六間ほどで二棟。二間四方の地蔵堂と鐘楼堂を配し、鎮守は小祠で天神を祀り、

寺領は、田は四反歩、畑はニ反歩程度であった。安江良左衛門正常に与えたが、後嗣の代に負債のために売却した。

廃寺後の本堂は小学校の校舎に転用され、明治24年(1891年)まで存続した。校舎の新築移転後は、内部の模様替えをして村役場として使用された。

庫裏は近在の者3名が150両で買受け、製糸工場として移転改築された。

歴代住持

寺跡の裏手台地の上之段墓地に並んでいる歴代住持の墓碑と、雲林寺旧蔵の過去帳の調べによれば、雲林寺との本末関係は、明暦年間(1655~1657年)に始まるので、三世までは常樂院時代の住持であったと考えられる。

  • 一世    心叟王  慶長6年4月11日没
  • ニ世    了山全  寛永3年5月21日没
  • 三世    渓岩源  明暦2年4月26日没
  • 四世    鐵翁午  延宝3年1月19日没
  • 中興五世  大圭猷  享保7年4月25日没
  • 六世    圓峰周  宝暦3年6月18日没
  • 七世    普翁慈門 明和5年7月28日没
  • 八世    鑒應禅古 明和8年8月21日没
  • 九世    聖外果   享和3年6月28日没
  • 十世    鳳宗祖來  嘉永元年3月6日没
  • 十一世   自董   明治12年9月6日没

四つ割南無阿弥陀佛碑

常樂寺の山門脇にあった南無阿弥陀佛碑

天保6年(1835年)、神戸彌助政辰・伊藤爲平盛豐・服田喜三太正命の三人が施主となり、飢饉・悪疫に対する祈願と犠牲者の供養のために建立された。

碑の材質は青石で、神土長瀞の白川で採取されて常樂寺に運ばれた。

製作者は信濃国伊那郡高遠石工傳藏で、常樂寺に滞在して、約半年で完成させた。

刻まれた南無阿弥陀佛六字名号は、常樂寺の本寺であった苗木雲林寺十五世の遂安宗寔[2]の揮毫によるもので、一字の大きさは、米が1升が入ると云われ、近郷の善男善女から「ごいっしょうさま」と崇められていた。

明治3年(1870年)、苗木藩の廃仏毀釈によって、藩役人からの命令で、この石碑も毀すこととなり、元の製作者の傳藏が急遽呼び出された。

傳藏は、後世に復活を期待したのか、節理に従い、縦4つに割ったのである。

4つに割られた碑は、池や畑の脇石や踏み石として名号が見えないように伏せこまれ、台石は現在の東白川村役場前広場の東南隅の角石として積まれたりした。

再建の動機は、昭和初期に、平地区内に悪疫などの不幸が続出したために、「仏石埋没の祟り」との噂が流れたことによる。

昭和10年(1935年)、天祐館の医師の安江浩平の主唱によって、当時の消防組の内で、平地区在住の壮年層14人が発起人となり、四散していた碑石を集めて現在地に再建した。中央に割った時の跡が残っている。現在は岐阜県東白川村役場脇にある。

昭和51年(1976年)6月に、歴史的な価値が認められ、東白川村の史跡に指定された。

参考文献

  • 『新修東白川村誌 通史編』 第六章 宗教 第一節 社寺・信仰集団 四 各寺院の跡 安泰山常樂寺 p963 - p965 東白川村誌編纂委員会 1982年
  • 『新修東白川村誌 通史編』 第五章 教育・文化 第四節 文化 四つ割南無阿弥陀佛碑 p928 - p929 東白川村誌編纂委員会 1982年
  • 『八百津町史 史料編』 第四編 民俗史料 第一章 藩文書 第七節 苗木藩の廃仏毀釈について 一四 神土常樂寺 p234-p235 八百津町史編纂委員会 昭和47年

脚注

  1. ^ 特に大般若経は肉筆で大威徳寺の什物であったものが、永禄12年(1569年)に、美濃国苗木遠山氏と飛騨国の三木氏との大威徳寺の戦いの際に、苗木遠山氏の分捕品とも云われている
  2. ^ 天保2年(1831年)7月19日遷化



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