市蛭子大神宮
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/01 05:12 UTC 版)
田淵家の先代が門前の西国街道に市場を立て、伝教大師がたまたま同家に泊まられたので、市場の繁栄を祈る守護神を切望。大師は一夜のうちに蛭子・大黒の立像を彫刻されて与えた。喜び自邸の傍らに宮を建てて市蛭子として崇めると、霊験著しく市場は大いに繁昌した。その後、衰退し、田淵了専が教宗寺の守護神として崇めていると、ご神体が盗まれ、蛭子は数日後に戻るものの大黒天は戻らなかった。神勅により石を納めて石大黒としていると、その石は分身して貞享(1684-1687年)の頃には2個、享保(1716-1735年)の頃には5個となり、ついには7個となった。これにより安産の宮と呼ばれるようになったという。
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