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岩田信

岩田信の俳句

また一人落葉踏む音銀婚式
女学生春一番は目玉焼き
手がはえて早苗饗の夜は温し
春が来ている観音堂に一宿す
黄落は夕べの人を明るくす
 

岩田信

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/16 01:56 UTC 版)

岩田 信(いわた しん、1864年12月11日(元治元年11月13日[1])- 1910年明治43年)9月4日[1][2][3])は、明治期の弁護士政治家衆議院議員。幼名・信二郎[1]。号・吉甫[1]

経歴

丹波国加佐郡大俣村[1]京都府[2]加佐郡岡田上村[3]字大俣[1]加佐町を経て現舞鶴市大俣)で、郷士、大庄屋、農業・岩田伊左衛門、千重の二男として生まれる[1]。草場船山に師事し漢学を修めた[1]。1879年(明治12年)ころに上京し、称好塾に入り杉浦重剛の薫陶を受けた[1]。代言人(弁護士)を目指し1884年(明治17年)大学予備門を卒業[1]司法省法学校に進み1887年(明治20年)10月に卒業して代言人資格が与えられた[1][2][3]

1889年(明治22年)京都市で法律事務所を開設し、民事専門の弁護士として活躍した[1]。京都弁護士会長、日本赤十字社正社員、相互生命保険合資会社賛助員、破産管財人なども務めた[1][2][3]

1903年(明治36年)3月、補欠選挙京都市会議員に選出され、1907年(明治40年)4月まで在任した[1][2][3]。1903年9月、京都府会議員となり1904年(明治37年)8月まで在任し、参事会員も務めた[1][2][3]

1904年(明治37年)3月、第9回衆議院議員総選挙(京都府京都市)で落選[1]したが、1908年(明治41年)5月の第10回総選挙(京都府郡部、立憲政友会)で当選を果たした[4]。東京日本橋箱崎町4丁目に事務所を構え[1]、政友会政務調査委員、衆議院予算委員、同請願委員などを務めたが[1]、病を得て療養に努めた[1]。1期目[2][3]の議員在任中、1910年9月に東京市本郷区丸山新町の自宅で糖尿病により死去した[1][5]

親族

  • 長兄 岩田誼太郎(京都府会議員)[1]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 『京都府議会歴代議員録』97-98頁。
  2. ^ a b c d e f g 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』81頁。
  3. ^ a b c d e f g 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』61頁。
  4. ^ 『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』43頁。
  5. ^ 『官報』第8164号、明治43年9月6日。

参考文献

  • 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』衆議院事務局、1918年。
  • 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
  • 京都府議会事務局編『京都府議会歴代議員録』京都府議会、1961年。
  • 衆議院参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。



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