屋形号と悪屋形
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 03:58 UTC 版)
この事態を打開すべく義氏は天正7年(1579年)、天下人であった織田信長に馬や鷹を献上して誼を通じることで後ろ盾を得ようとした。この献上の見返りとして信長から屋形号を許されるなどの栄誉を受け、上杉氏の内乱により外圧が減少したことを受けて義氏の威光は大きなものとなった。一荘園領主出身の義氏は確固たる基盤を持っていなかった為、信長の後ろ盾は義氏の大きな権力基盤となったのである。 だが屋形号を称するために、それまで戴いていた羽黒山別当の座を弟・義興に譲ったことで羽黒山信徒から反発を招き、かねてより続いていた遠征によって酒田湊や領民に対しても課税や兵役が増えた事で民心は離れ、反感を抱く者達から次第に悪屋形と渾名されるようになっていった。
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