小瀬中務との混同
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/30 04:32 UTC 版)
日上山城主を務めた美作国衆小瀬氏の一族、小瀬政秀の長子・小瀬秀正は別人である。宇喜多秀家に仕え、関ヶ原の戦いでの敗戦後に大隅国に逃亡し島津氏に匿われていた際、家老としてその折衝にあたっていた人物。 加賀藩には旧宇喜多家臣が少なくなかったが、その一人堀部休庵の子で750石を知行した養叔の次男又四郎が甫庵の小瀬家に養子に入りその家を継いだと見られ、その話が不正確な形で備前に伝わって備前藩士土肥経平の書いた『備前軍記』で中務と甫庵の経歴が接合され、それを敷衍した『岡山市史』などで同一人物として扱われた結果、甫庵と中務が同一人物であるかのようにみなされた。現在では両者が別人であることが明らかになっている。
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