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小河信俊

(小河信実 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/16 07:22 UTC 版)

 
小河信俊
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不明
死没 天正12年3月24日1584年5月4日
改名 信友→信実→信貫→信俊
官位 大炊助武蔵守
主君 龍造寺隆信政家
氏族 鍋島氏→小河氏
父母 父:鍋島清房、義父:小河信安
兄弟 鍋島信房鍋島直茂信俊龍造寺康房
正室:小河信安娘
家俊、家尚、神代家良
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小河 信俊(おがわ のぶとし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将龍造寺氏の家臣。

略歴

龍造寺隆信の重臣・鍋島清房の三男として誕生。

永禄元年(1558年)、隆信の執権である小河信安とその嫡子・豊前守が神代勝利との戦で討ち死にすると、小河の名跡が絶えるのを惜しんだ隆信の命により、信安の娘を娶って小河氏を継いだ。

永禄4年(1561年)の神代勝利との再戦では、隆信の実弟・龍造寺信周の陣に属して戦い、翌年の肥前有馬氏との戦いでは隆信の旗本衆に属して戦った。元亀元年(1570年)に大友氏が攻めてくると大将の一人として戸次鑑連(後の立花道雪)勢へ打ち掛かり、それより間も無く発生した今山の戦いの際は、兄・鍋島直生(後の直茂)の後詰として西高木にまで出陣したが、兄が勝利したと知り帰城している。

その後も小田鎮光や平井経治大村純忠攻め等に大将として参加、隆信の後継である龍造寺政家の政権下では納富家理・土肥家実と共に宿老となった。

天正12年(1584年)、沖田畷の戦いに参戦し討ち死にした。

出典

  • 『北肥戦誌(九州治乱記)』(青潮社・1995年1月)



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