平川光伸とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 平川光伸の意味・解説 

平川光伸

(小川平馬 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/09 06:02 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

平川 光伸(ひらかわ みつのぶ、1835年4月26日天保6年3月29日[1]) - 1891年明治24年)6月7日[1][2])は、幕末土佐藩士明治時代の官吏判事三潴県権令。岡山地方裁判所長。諱は光伸、通称は和太郎、(小川)保馬[3]。旧姓は小川[3]

経歴

尾川光久の長男として土佐国安芸郡和食村(現高知県安芸郡芸西村和食)に生まれる[1]。土佐藩の小吏[3]。父を継ぎ、藩の下横目職を務めた[1]勤王党に志を通じ、井上佐市郎暗殺事件にも関与した[3]。のち脱藩し国事に奔走[3]

東山道先鋒総督府斥候として活躍[3]1868年(慶応4年4月)流山の戦いで近藤勇が投降するきっかけを作ったのは平川光伸、南部甕男、上田楠次の3名の策略によるといわれている[1]

ほか、大監察助役、鎮将府権弁事試補などを歴任し、1872年(明治5年5月)秋田県権参事に任ぜられる[4]。のち度会県参事を経て[2]1875年(明治8年)三潴県権令となり、1876年(明治9年)8月、退官した[4]

1877年(明治10年)6月、判事となり[4]、同年、大阪裁判所主席判事に任じる[2]。その後、1885年(明治18年)9月、岡山重罪裁判所長、1888年(明治21年)頃、岡山始審裁判所長、のち岡山地方裁判所長を歴任した[2]

1891年(明治24年)6月7日、東京大学病院で死去した[1]

栄典

位階
勲章等

脚注

[脚注の使い方]

参考文献




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  平川光伸のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「平川光伸」の関連用語

1
12% |||||

平川光伸のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



平川光伸のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの平川光伸 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS