対戦兵力・損害
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/11 02:21 UTC 版)
前述の通り『信長公記』では織田方の戦死者を5千人としている。『定光寺年代記』では尾州衆2千人が討ち死にとする。道三の家老である長井九兵衛(秀元)が水野十郎左衛門に宛てた書状では、土岐頼純・朝倉孝景・織田信秀合わせて2万5、6千の軍勢に対し、斎藤方は5、6百を討ち取り、敗走した織田方の兵は木曽川で2、3千が溺れ死に、信秀は6、7人を連れただけで逃げ帰ったとしている。『東国紀行』では、信秀は1人で帰ったとする。いずれにしても織田方の大敗だが、『信長公記』では信秀は翌月には三河にも出兵したとしている。
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