守貞親王擁立構想について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 16:34 UTC 版)
「三左衛門事件」の記事における「守貞親王擁立構想について」の解説
事件から1年前の建久9年(1198年)正月、通親は土御門天皇の践祚を強行したが、『玉葉』建久9年正月6日、7日条には新帝の候補として後鳥羽上皇の兄である二宮(守貞親王)と三宮(惟明親王)の名が挙がったこと、幕府が幼主の即位に難色を示したことが記されている。また『延慶本平家物語』には文覚が守貞親王擁立を企て、頼朝に働きかけたが実現しなかったという記述がある。河内祥輔は頼朝が持明院家や一条家を通じて守貞親王擁立を図った可能性があり、事件は通親に対する守貞親王派の不満が噴出したもので、頼朝死後の幕府首脳部は後鳥羽上皇との関係改善のために、守貞親王派の持明院家、一条家、文覚を切り捨てたのではないかと推測している。ただ『玉葉』『愚管抄』には頼朝が守貞親王を推したとは明記されていないため、頼朝の真意は定かでない。頼朝に皇位継承問題への積極的な介入の様子が見受けられないこと、一条家は守貞親王と直接の接点がなくむしろ後鳥羽上皇に近い立場にあることから、守貞擁立構想が存在したとしても頼朝と一条家が関与したかどうか疑問視する見解もある。
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