奥屋熊郎とは? わかりやすく解説

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奥屋熊郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/16 01:42 UTC 版)

奥屋 熊郎(おくや くまお、1894年7月11日[1] - 1964年11月14日[2])は、日本の新聞記者、放送プロデューサー。戦前の草創期のNHKで、その企画力により独創的な企画を次々に実現、特に国民歌謡の発案者として知られる。

略歴

1894年、 三重県阿山郡新居村字東村(現在の伊賀市東高倉)に生まれ、後に一家で神戸へ出る。

1914年に神戸新報社記者となったのを皮切りに、神戸又新日報大阪日日新聞で記者として活動、鳥居素川河東碧梧桐花田比露思丸山幹治などから名編集者として激賞された[3] 。その一方で、富田砕花の詩や短歌に親しみ、みずから1917年、文化雑誌「ミナト芸術」を創刊するなど、神戸の文化活動の一端を担う。

1926年1月、戦前のNHK大阪放送局入局。桂春團治の落語、野球中継、ラジオ体操、女優岡田嘉子による「椿姫」一人芝居、「詩の朗読」など、ユニークな企画を次々に実現。同局文芸課長を務める。

1936年4月、奥屋の企画による「新歌謡曲」放送後、局内の議論の結果「国民歌謡」と改題し、同年6月1日より放送を開始[4] [5]。のちに奥屋自身も作詞を手掛けた。

1943年7月、NHKを去って東京へ移り、日本放送出版協会常務取締役に就任。

1949-1951年、同社代表取締役社長。1964年11月14日、脳溢血のため神奈川県鎌倉市材木座の自宅で死去[2]

参考文献

脚注

  1. ^ 『大衆人事録 近畿篇』(帝国秘密探偵社、1940年)兵庫46頁
  2. ^ a b 『放送教育』第19巻第10号・通巻190号(日本放送教育協会、1965年1月)p.61
  3. ^ 『大阪新人物誌』、夕刊大阪新聞社、1933年
  4. ^ 戸ノ下達也『ラジオ放送の音楽~國民歌謡からラジオ歌謡へ~』第1回 『國民歌謡』の誕生(東京書籍)
  5. ^ 奥屋「国民歌謡」の創造運動」(日文研大衆文化プロジェクト編『日本大衆文化論アンソロジー』(2021年、太田出版)所収、初出「放送」1936年7月号)

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