失火による焼失
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 01:02 UTC 版)
1924年(大正13年)12月29日に全焼して20名の患者が焼死したが、院長で経営者の紀一は先年の衆議院議員総選挙で資金の多くを失い、火災保険も失効しており、病院の再建は資金的に困難であった。 このころは病院周辺も市街地として繁華になり、精神病院の再建に近隣住民の反対が強く、病院の土地は借地で地主から土地の返還が要求された。当時は警察が衛生行政を担当していたが、警視庁も精神病院の建設は郊外でなくては不許可の方針で、青山脳病院の再建は青山からの移転を免れなかった。 1925年(大正14年)5月ごろに松澤村松原へ移転を決定し、もとの青山の地に小規模な脳外科の診療所を再建した。これよりのち、松原の病院は「青山脳病院 本院(松澤本院)」、青山の診療所は「青山脳病院 分院(青山分院)」と呼ばれた。
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