太守に降格
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/07 06:13 UTC 版)
356年4月、苻生の粗暴な振る舞いを厳しく諌めた左光禄大夫の強平が、怒りを買って獄に繋がれた。禁中に控えていた鄧羌はこの事態を知ると、衛将軍苻黄眉・前将軍苻飛と共に、叩頭して処刑を思い止まるよう強く諫めた。強平は苻生の母である強皇太后の弟(すなわち苻生の叔父)であったため、鄧羌は彼女の名を持ち出して諫言を続けたが、苻生はこれに一切耳を貸さず、結局強平は処刑された。苻生は反抗した鄧羌も殺そうと考えていたが、その武勇を惜しんで咸陽郡太守に左遷されただけで沙汰止みとなった。
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