大隅合戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 02:32 UTC 版)
大隅は古くからの国人衆が多く、守護の支配権が長い間及ばない地域であった。これらは島津氏の領土拡大において多大な障害となっていた。天文23年(1554年)、島津氏の軍門に降った加治木城主の肝付兼盛(兼演の子)を蒲生範清・祁答院良重・入来院重朝・菱刈重豊らが攻めた。加治木を救援するために島津氏は貴久はじめ一族の多くが従軍した。貴久は祁答院氏のいる岩剣城を攻めることで、加治木城の包囲を解こうと考えた。島津軍は岩剣城を孤立化させた結果、蒲生範清・祁答院一族ら2000余人が押し寄せた。島津軍は蒲生軍を撃破し、祁答院重経・西俣盛家など50余人の首級を挙げた。 貴久は続いて、弘治元年(1555年)、帖佐平佐城を攻略し、弘治2年(1556年)、松坂城を攻略した。支城を3つ失った蒲生氏は本拠の蒲生龍ヶ城を火にかけて祁答院へと逃げ帰った。これにより貴久は西大隅を手中に治め、領土拡大の足掛かりにすることができた。
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