大間国生神社
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 10:46 UTC 版)
大若子命(おおわかこのみこと)が祭神。『倭姫命世記』 によれば倭姫命が雄略天皇21年丁巳冬10月(ユリウス暦:477年10月 - 11月)に定めた神社であるとされ、社名・大間国生神社は、「大間社」と記す古書もある。外宮の摂社としては第2位である。 社殿は草奈伎神社と同様に神明造の板葺である。1つの玉垣の中に2つの社殿が建っており、右側(東側)が大間社で大若子命を、左側(西側)が国生社で乙若子命を祀るとされる。『勢陽五鈴遺響』に同様の記述がある。式内社であり、多くの古書に2つの社殿からなることが記されているが、『延喜式神名帳』では「大間国生神社」とあるのみで2つの社殿があるとは記されていない。1976年(昭和51年)5月28日に建て替えられた。 『類聚神祇本源』では清野井庭神社が「大間社東野」にあり、草名伎社が「大間社西」にあったと記述しており、清野井庭神社を今社に比定する説が正しいとすれば、大間国生神社と草奈伎神社の位置がずれることになる。この問題に関して『宇治山田市史』では、往古の大間国生神社は江戸時代の同社よりも広い社地を持っていたと考えられるが、清野井庭神社の再興時点での大間国生神社の社地を基準に考えてしまったため現社地(伊勢市常磐一丁目8番)に清野井庭神社が鎮座したのであり、今社(伊勢市宮町一丁目1番)が式内社の清野井庭神社の本来の社地であるとしている。
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大間国生神社
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 14:55 UTC 版)
『倭姫命世記』 によれば倭姫命が雄略天皇21年丁巳冬10月(ユリウス暦:477年10月 - 11月)に定めた神社であるとされ、社名・大間国生神社は、「大間社」と記す古書もある。外宮の摂社としては第2位である。 社殿は草奈伎神社と同様に神明造の板葺である。1つの玉垣の中に2つの社殿が建っており、右側(東側)が大間社で大若子命を、左側(西側)が国生社で乙若子命を祀るとされる。『勢陽五鈴遺響』に同様の記述がある。式内社であり、多くの古書に2つの社殿からなることが記されているが、『延喜式神名帳』では「大間国生神社」とあるのみで2つの社殿があるとは記されていない。1976年(昭和51年)5月28日に建て替えられた。 『類聚神祇本源』では清野井庭神社が「大間社東野」にあり、草名伎社が「大間社西」にあったと記述しており、清野井庭神社を今社に比定する説が正しいとすれば、大間国生神社と草奈伎神社の位置がずれることになる。この問題に関して『宇治山田市史』では、往古の大間国生神社は江戸時代の同社よりも広い社地を持っていたと考えられるが、清野井庭神社の再興時点での大間国生神社の社地を基準に考えてしまったため現社地(伊勢市常磐一丁目8番)に清野井庭神社が鎮座したのであり、今社(伊勢市宮町一丁目1番)が式内社の清野井庭神社の本来の社地であるとしている。
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