大物崩れと最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 16:24 UTC 版)
「大物崩れ」を参照 その後、道永は伊賀国の仁木義広や婿で伊勢国司の北畠晴具、越前の朝倉孝景、出雲国の尼子経久らを頼って落ち延びていた。享禄3年(1530年)に柳本賢治が播磨国出陣中に暗殺されると、備前守護代浦上村宗と連携して京に進軍した。 京都帰還を果たすと、つぎは管領の座を脅かす晴元を倒すべく、堺公方府への出征を試みた。ところが享禄4年(1531年)3月10日には晴元の重臣・三好元長からの反撃で機先を制されてしまい、摂津で足止めされ膠着状態(中嶋の戦い)に陥った。やがて6月になって、新たに参戦した赤松政祐の支援を得たかに見えたが、同月4日には親道永派の重臣・浦上村宗を粛清する機会を狙っていた政祐の裏切りに遭って高国勢は総崩れとなり、村宗や主だった重臣を討ち取られた道永は尼崎に逃走した(大物崩れ)。 しかし、元長たちの厳しい捜索により、紺屋の甕の中に隠れているのを発見された道永は、6月8日の寅刻(午前4時)頃に尼崎の広徳寺で自害に追い込まれた。享年48。「絵にうつし 石をつくりし 海山を 後の世までも 目かれずや見む」と言う辞世の句を、北畠晴具に送っている。
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