大友氏、尼子再興軍・山中幸盛との死闘
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「熊谷信直」の記事における「大友氏、尼子再興軍・山中幸盛との死闘」の解説
永禄11年(1568年)、吉川元春に従い熊谷親子は北九州に進出。博多を望む要衝・筑前立花山城を包囲攻撃し、援軍に現れた大友軍と激突した。立花山城は落城し、毛利氏の手中に収まったが、大内輝弘らが周防に乱入したため、立花山城を放棄して輝弘を討った(大内輝弘の乱)。 信直は元春と共に、中国地方各地を常に吉川軍の主力として転戦。最終的には国衆最高の16,000石を得た。しかし天正7年(1579年)に嫡男の高直が病死、嫡孫の元直を補佐し、文禄2年(1593年)に病死した。 墓所は居城のあった三入高松城の麓、土居屋敷の近くにあった観音寺跡。毛利氏と共に熊谷氏が防長に移封された後も子孫は墓参を行っている。
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