垣内惟聡とは? わかりやすく解説

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垣内惟聡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/14 02:39 UTC 版)

垣内 惟聡
生誕 文化元年(1804年
紀伊国有田郡栖原村
死没 安政5年12月16日1859年1月19日
紀伊国有田郡栖原村賽神山麓
墓地 施無畏寺
別名 通称:松三郎・太郎兵衛・太郎八、号:梅渓、諡号:烱遠[1]
時代 江戸時代
肩書き 栖原垣内家本家第11代
前任者 垣内玄蔵
後任者 菊池晩香
垣内淡斎・孝
親戚 兄:垣内玄蔵菊池海荘、姉:鶴

垣内 惟聡(かきうち ?)は幕末紀州豪商。栖原垣内家本家第11代を継いだが、豪遊して家業を傾けた。

生涯

文化元年(1804年)栖原垣内家新家垣内淡斎(孝友)の三男として生まれた[2]。父が大坂安治川に出店した河内屋松三郎店を任され、醤油を販売した[1]。父は死ぬ間際、店を義兄垣内白沙に譲ったが、気に病まず高砂を謡ったという[1]

垣内玄蔵の養子となり、本家を継ぐと、大坂東堀に豪邸を構えて豪遊し、江戸本店番頭松田佐七に4度諌められるも、聞き入れなかった[1]天保の改革で倹約令が出され、物価の低迷により経営が悪化すると、東堀の豪邸は手放したが、浪費癖を完全には直さなかった[1]

ある晩浜辺で漁の様子を見て漁業進出を思い付き、大船を建造して巨大な網を作り、人を集めて大規模な操業を行ったが、収支が合わず、半年で巨額の損失を出した[1]。親族に非難されるも、「あなた方は幸運だ。小成に安んじている。私の志など分からないだろう。」と一笑に付した[1]

しばらくして奇病に罹り、歩行困難となった[1]。江戸近海で不漁が続き、商売も振わず、深川本店の財政が悪化し、番頭左七は子の弥吉に跡を譲った[1]。度々倹約を促され、遂に栖原賽神山麓に小屋を構えて隠居し、代々の遺稿を整理し、家業の変遷を記し、時折大声で謡曲を謡った[1]安政5年12月16日(1859年1月19日)病没し、烱遠と諡号され、兄海荘第2孫菊池晩香が跡を継いだ[1]。安政6年(1859年)10月施無畏寺に墓石が建立された[3]

家族

天文21年(1552年)垣内武行が興した栖原垣内家の一族[4]

  • 父:垣内淡斎(孝友) - 本家第9代垣内忠質(茗渓)弟[5]
  • 母:孝 – 有田郡滝川原村旧家、宮原次兵衛娘[6]安永4年(1775年)生。剃髪して孝寿と号した。安政2年(1855年)11月6日死去し、施無畏寺に葬られた[7]
  • 兄:垣内玄蔵(広敬)
  • 姉:鶴 - 垣内白沙(八郎兵衛、貞)妻[4]
  • 兄:菊池海荘(保定)

妻子はなかった[3]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k 菊池 1918, p. 10.
  2. ^ 山口 1999, p. 7.
  3. ^ a b 湯浅町 1967, p. 953.
  4. ^ a b 山口 1999, p. 5.
  5. ^ 山口 1999, p. 6.
  6. ^ 菊池 1918, p. 12.
  7. ^ 湯浅町 1967, pp. 950-951.

参考文献

  • 和歌山県有田郡誌和歌山県有田郡役所、1915年5月
  • 菊池三九郎 『黄花片影』 菊池三九郎、1918年4月NDLJP:926715/18
  • 湯浅町誌編纂委員会 『湯浅町誌』 湯浅町1967年
  • 山口啓二「歴史と現在、そして未来 ―南紀栖原の豪商菊池家の文書整理を通じて見えてきたもの―」、『名古屋大学日本史通信 ばさら』第2号、名古屋大学大学院文学研究科、1999年



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