国貞死後の内藤氏
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国貞死後、国貞の娘を娶っていた松永長頼が八木城へと入った。内藤氏の家督は、国貞の契約により長頼が継ぐところ、長頼の分別によって長頼の子・千勝(のちの貞勝)が継ぐことになったとし、細川氏綱が丹波の国人らにそれを通知している。長頼は出家して「松永蓬雲軒宗勝」と名乗っており、内藤家を乗っ取る意思がないと表明したものとみられる。 千勝はその後貞勝と名乗り、備前守の官途を継いだ。貞勝を後見する宗勝は、永禄2年(1559年)、波多野秀親・次郎を味方に付けて波多野元秀の多紀郡八上城を陥落させる。氷上郡黒井城の赤井時家・荻野直正父子も丹波から追い落としたとみられ、宗勝は丹波全域を席巻することとなった。 永禄4年(1561年)6月時点では貞勝が備前守を名乗っているが、永禄5年(1562年)には宗勝が内藤氏の家督を継いで、備前守と称している。この頃より、波多野氏、赤井氏が勢力を盛り返し、永禄8年(1565年)8月、宗勝は荻野直正との戦いで討死した。 この後、内藤氏の家督は宗勝の子・貞弘が継ぐ。元亀4年(1573年)3月、貞弘は織田信長と対立する将軍・足利義昭の求めに応じて上洛し、天正3年(1575年)6月、明智光秀による丹波攻めの討伐対象として名を挙げられ、やがて丹波を離れることとなった。この貞弘が、キリシタンとして著名な内藤如安である。
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