国貞死後の内藤氏とは? わかりやすく解説

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国貞死後の内藤氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/09 22:55 UTC 版)

内藤国貞」の記事における「国貞死後の内藤氏」の解説

国貞死後国貞の娘を娶っていた松永長頼八木城へと入った内藤氏家督は、国貞契約により長頼が継ぐところ、長頼の分別によって長頼の子・千勝(のちの貞勝)が継ぐことになったとし、細川氏綱丹波の国人らにそれを通知している。長頼は出家して松永軒宗勝」と名乗っており、内藤家乗っ取る意思がないと表明したものとみられる。 千勝はその後貞勝と名乗り備前守官途継いだ。貞勝を後見する宗勝は、永禄2年1559年)、波多野秀親次郎味方に付けて波多野元秀多紀郡八上城陥落させる氷上郡黒井城赤井時家荻野直正父子丹波から追い落としたとみられ、宗勝は丹波全域席巻することとなった永禄4年1561年6月時点では貞勝が備前守名乗っているが、永禄5年1562年)には宗勝が内藤氏家督継いで備前守称している。この頃より、波多野氏赤井氏勢力盛り返し永禄8年1565年8月、宗勝は荻野直正との戦いで討死した。 この後内藤氏家督は宗勝の子・貞弘が継ぐ。元亀4年1573年3月、貞弘は織田信長対立する将軍足利義昭求めに応じて上洛し、天正3年1575年6月明智光秀による丹波攻め討伐対象として名を挙げられ、やがて丹波離れることとなった。この貞弘が、キリシタンとして著名な内藤如安である。

※この「国貞死後の内藤氏」の解説は、「内藤国貞」の解説の一部です。
「国貞死後の内藤氏」を含む「内藤国貞」の記事については、「内藤国貞」の概要を参照ください。

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