古今亭志ん生 (初代)とは? わかりやすく解説

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古今亭志ん生 (初代)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/17 22:57 UTC 版)

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初代 古今亭ここんてい しょう
別名 寿耕
生年月日 1809年
没年月日 1856年1月21日
師匠 初代三遊亭圓生
名跡 1. 初代三遊亭圓太
2. 古金亭真生
3. 初代古今亭志ん生
活動期間 ? - 1857年
所属 三遊派

初代 古今亭 志ん生(ここんてい しんしょう、文化6年(1809年)(逆算) - 安政3年12月26日1856年1月21日))は、幕末期に活躍した江戸落語家。俗称、清吉。俳名、寿耕。通称「八丁荒らしの志ん生」。

小玉屋権左衛門家に丁稚奉公をした後、文政期から初代三遊亭圓生の弟子になり初代三遊亭圓太の名で噺家になった。

のちに初代立花屋圓蔵と圓生の名跡でを争って敗れたため失意の結果旅に出たとされる。1847年に帰京し四谷忍原亭で古金亭真生を披露したが、1836年には既に古金亭志ん生で名乗っており、弘化期には新生、嘉永期では真生を名乗ることもあった。

人情咄を得意とした、得意演目には「お初徳兵衛浮き名の桟橋」「お富与三郎」「小猿七之助」などがありいずれも劇化され8代目市川團十郎が演じ評判になった。「九州吹戻し」は鈴々舎馬風から2両2文で譲り受けたといわれ、そのうまさは誰も真似できなかった、そのため後に三遊亭圓朝は弟子に一切演じるのを禁じた。

俳句も良くし「送り火や飛びつく螽追ひながら」の句を残している。

顔にはあざがあったとされ、また片目か片足が不自由でかごに乗って寄席通いをしたと伝わっている。墓所は墨田区本久寺。

門下には初代蝶花楼馬楽2代目古今亭志ん生

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