反ユダヤ人民党
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/04 21:25 UTC 版)
1890年に、ドイツ改革党員だったオットー・ベッケル(Otto Böckel)とオスヴァルト・ジンマーマン(Oswald Zimmermann)が「Antisemitische Volkspartei (AVP、反ユダヤ人民党、反ユダヤ国民党)」として再結成した。エアフルトを拠点とした。Wilhelm Pickenbachによる Deutscher Antisemitenbund(ドイツ反ユダヤブント)も反ユダヤ人民党の一部を構成した。党の目的は「ユダヤ人の解放」にあるとした。 1890年ドイツ連邦選挙で反ユダヤ人民党はドイツ帝国議会における4議席を獲得した。 1892年、ドイツ保守党(Deutschkonservative Partei)がティヴォリ綱領で反自由主義・反社会主義・反ユダヤ主義を掲げた。 1893年の選挙ではドイツ改革党の選挙協力もあり、反ユダヤ人民党の議席は11議席となった。こうしてドイツ帝国帝国議会選挙でゾンネンベルク(Max Liebermann von Sonnenberg)のドイツ社会党(Deutschsoziale Partei,DSRP)などと合計して反ユダヤ諸党の議席数が5席から16席となった。ドイツ社会党らは院内会派としてドイツ改革党(Deutsche Reformpartei)を結成し、代表にジンマーマン(Oswald Zimmermann)が就任した。背景には農業関税の引き下げにあるとされる。 1893年5月、ドイツユダヤ人最大組織のユダヤ教徒ドイツ国民中央連盟(Central-Verein deutscher Staatsbürger jüdischen Glaubens)が結成。
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