友松氏盛
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友松 氏盛(ともまつ うじもり、慶長3年(1598年)-寛文8年6月2日(1668年7月10日))は、江戸時代の武士。豊臣氏家臣友松盛保の子。母は佐藤堅忠の娘。妻は友松将監道半入道の娘及び安西氏。子に友松氏広・氏興。
慶長16年(1611年)に豊臣秀頼に出仕し、翌年小姓組に列せられる。大坂の陣では豊臣方にあったが、徳川氏に仕えていた母方の縁で助命され、父と共に京都で閉居する[1]。
元和5年(1619年)11月に土佐藩主山内忠義に15人扶持にて召し抱えられ、合力米20石を与えられる。翌年、知行300石に改められる[1]。
寛文5年(1665年)に家督を氏広に譲って隠居し、3年後に京都にて死去。法名は玄通招徹日理で大徳寺梅岩庵に葬られた[1]。
脚注
参考文献
- 柏木輝久(著)北川央(監修)『大坂の陣 豊臣方人物事典』宮帯出版社、2016年。P442-443.
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