北条忠時 (金沢流)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/06 21:32 UTC 版)
時代 | 鎌倉時代末期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 元弘3年/正慶2年5月22日(1333年7月4日) |
別名 | 金沢忠時 |
氏族 | 北条氏(金沢流) |
父母 | 父:北条貞将 |
兄弟 | 忠時、淳時 |
北条 忠時(ほうじょう ただとき)は、鎌倉時代末期の武将。金沢流北条氏の出身で、第15代執権北条貞顕の嫡男である北条貞将の長男。弟に淳時がいる。
元弘3年/正慶2年(1333年)5月、新田義貞が鎌倉に攻め込んだ。『太平記』巻十にある「鎌倉合戦の事」によれば、忠時は化粧坂の守備についたとされ、その軍勢を3万余騎としている[1]。その後、父貞将と共に自害したという(「北条氏系図」)[2]。
脚注
- ^ 石井 由紀夫「『太平記』巻十の構造について」『語学文学』第53巻、北海道教育大学語学文学会、2014年、1-10頁。
- ^ 永井晋『金沢貞顕』吉川弘文館〈人物叢書〉、2003年、149頁。ISBN 4-642-05228-3。
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