内藤頼由とは? わかりやすく解説

内藤頼由

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/28 03:19 UTC 版)

 
内藤頼由
時代 江戸時代中期
生誕 宝永6年1月7日1709年2月16日[1]
または宝永5年(1708年[2]
死没 安永9年5月27日1780年6月29日[1]
または同年5月28日(同年6月30日[2]
改名 永井尚達(初名)、頼由
別名 永井左京[3]
戒名 源隆院殿興誉尉山道翁大居士
墓所 東京都新宿区新宿太宗寺
官位 従五位下、大和
幕府 江戸幕府
主君 徳川吉宗家重家治
信濃国高遠藩
氏族 永井氏内藤氏
父母 父:永井直敬、母:永井直右の娘
養父:内藤頼卿
兄弟 永井尚平永井直陳、永井尚方、頼由
正室:松平康豊の娘
吉十郎
養子:頼寛頼多頼尚
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内藤 頼由(ないとう よりゆき)は、信濃高遠藩の第3代藩主。高遠藩内藤家8代。

生涯

宝永6年(1709年)1月7日(または宝永5年(1708年))、信濃飯山藩主(のちに武蔵岩槻藩主)・永井直敬の六男として生まれる。享保20年(1735年)に高遠藩の第2代藩主・内藤頼卿に実子がなかったため、末期養子として迎えられ家督を継いだ。

元文4年(1739年)に大坂加番延享3年(1746年)から安永4年(1775年)まで奏者番を務めている。藩政では財政問題のため、元文2年(1737年)12月に藩士に対して従来の金給制から俸禄制に改めた[3]。他にも支給方法の改正などを行なっている[4]

安永5年(1776年)、養子の頼尚に家督を譲って隠居する。安永9年(1780年)5月27日(または5月28日)に死去。享年72(または73)。

系譜

父母

正室

子女

  • 内藤吉十郎

養子

脚注

  1. ^ a b 内藤頼由」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』講談社https://kotobank.jp/word/%E5%86%85%E8%97%A4%E9%A0%BC%E7%94%B1コトバンクより2025年4月28日閲覧 
  2. ^ a b 『三百藩藩主人名事典 第2巻』新人物往来社、1986年、pp.487-488。
  3. ^ a b 長谷川 2005, p. 63.
  4. ^ 長谷川 2005, p. 64.

参考文献





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