仏教の振興と広陵の略奪
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 04:54 UTC 版)
はじめ徐州の陶謙に仕え、広陵や彭城で兵糧輸送などの監督官を務めていた。しかし、やがて兵糧などの物資を奪って自立するようになる。この頃の笮融は、領内に壮麗な楼閣を備え、3,000人もの人々を収容できるような伽藍を建立した。また、毎年の仏誕節である4月8日には、盛大な法会を執り行ない、寺に至る者は5,000人に達したとされる。後の中国大陸における仏教が広まる基礎を作り出した布教者であり、中国の仏教にとっては功労者であると言える一面もある。 興平元年(194年)に、陶謙が曹操に攻められて徐州が混乱すると、下邳国の相となっていた笮融は、彭城国の相であった薛礼と共に、揚州刺史の劉繇を盟主として仰ぐようになった。また、ほぼ時を同じくして、混乱を避けるために広陵太守の趙昱を頼った。趙昱が笮融を賓客として持て成したが、笮融は広陵が豊かな土地であると見ると、趙昱を謀殺して、広陵で略奪の限りを尽くしている。
※この「仏教の振興と広陵の略奪」の解説は、「笮融」の解説の一部です。
「仏教の振興と広陵の略奪」を含む「笮融」の記事については、「笮融」の概要を参照ください。
- 仏教の振興と広陵の略奪のページへのリンク