京極備前守
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/26 23:28 UTC 版)
京極 備前守(きょうごく びぜんのかみ、生没年不詳)は、安土桃山時代から江戸時代前期の武将。本名不詳。
京極備中守と記されることもある[1]。
生涯
京極高知(丹後守)の従兄弟と伝わる[2]が詳細は不明。この説によれば京極高次(慶長14年(1609年)没)にとっても従兄弟となる[注釈 1]。
慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いで西軍についたために浪人となる[2]。慶長19年(1614年)、大坂の陣が起こると6000人を率いて大坂に入城したという[2]。
慶長20年(1615年)5月8日、夏の陣で大坂城が落城するに際して、今木源右衛門(浅井一政)・京極備前守[注釈 2]・別所孫右衛門の3人は徳川方への使者として城を出、前線(先手)に赴いた[1][3][4]。『徳川実紀』ではこの3人に加えて渡辺長右衛門の名も挙げる[4]。
「土屋知貞私記」によれば、常高院(淀殿の妹。京極高次室)への使者として城外に派遣された[3]。淀殿の助命嘆願を徳川方に伝達するよう依頼するものではなかったかという推測がある[5]。「大坂御陣覚書」は、淀殿が大野修理を介し、京極備前・渡辺長左衛門を使者として徳川方に派遣したとあるが、その趣意は不明であるとしている[6]。
これら徳川方へ派遣された使者は、城への帰還ができず、大坂城の炎上を城外から見ることとなった[4][注釈 3]。「浅井一政自記」によれば、今木源右衛門は京極忠高(常高院の養子、京極家当主)の陣所を訪れるが仲介は断られ、帰城途中に井伊直孝勢に拘束されたため復命を果たせなかったという[5]。「土屋知貞私記」は、別所と今木のその後を記すが[注釈 4]、京極は牢人となってそのまま死去したという[1]。
脚注
注釈
- ^ 京極高次・高知兄弟の父は京極高吉である。高吉の兄弟としては、家督を争った兄の高延が伝えられている。
- ^ 土屋知貞私記では「京極備中守」とする[1]。
- ^ 「浅井一政自記」によれば、今木源右衛門は秀頼の依頼によって使者を命じられたとあり[7](ただし「浅井一政自記」には同行者についての記述はない[3])。
- ^ 別所はのちに(徳川家に)召し出され、今木は加賀藩に仕えた、とある。今木の戦後については浅井一政の記事参照。別所氏で孫右衛門を称した人物としては別所吉治(豊後守)や別所重家(吉治の弟。左近とも)らがいるが、いずれも大坂の陣では徳川方で参戦した[8]。なお、吉治の別の弟である別所信範(蔵人)は豊臣秀頼に仕えており[8][9]、5月7日に大坂城で戦死したという[8]。
出典
- ^ a b c d 『土屋忠兵衛知貞私記』、国立公文書館所蔵写本 71/99コマ。
- ^ a b c 徳富猪一郎『近世日本国民史』第12(民友社、1934年)、p.262。
- ^ a b c 堀智博 2017, p. 107, 注56.
- ^ a b c 『台徳院殿御実紀』巻丗七・元和元年五月八日条、経済雑誌社版『徳川実紀 第一編』p.774 / 内藤耻叟校訂『徳川実紀 巻70−79』p.49。
- ^ a b 堀智博 2017, p. 100.
- ^ 『大日本史料』第12編之19(東京大学史料編纂所、1917年)、p.639。
- ^ 堀智博 2017, p. 99.
- ^ a b c 『寛政重修諸家譜』巻第四百七十二「別所」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第三輯』p.458。
- ^ 徳富猪一郎『近世日本国民史』第12(民友社、1934年)、p.272。
参考資料
- 堀智博「豊臣家中からみた大坂の陣: 大阪落人浅井一政の戦功覚書を題材として」『共立女子大学文芸学部紀要』第63号、共立女子大学文芸学部、2017年、79-116頁、2025年7月26日閲覧。
- 『土屋知貞私記』
- 国立公文書館所蔵 『土屋忠兵衛知貞私記』(和学講談所旧蔵写本)
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