二田城
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二田城(ふったじょう)は、和泉国二田(現・大阪府泉大津市二田町)にあった日本の城。
沿革
二田の地名は、紀元前5 - 4世紀、九州から東進(天下り)してきたニギハヤヒに付き添っていた物部氏族の二田氏がこの地に住み着いたことに由来するといわれる。649年、中大兄皇子の命を狙ったという謀反の濡れ衣を着せられて自決した、蘇我倉山田石川麻呂の首を切り落とした物部二田造塩(ふったみやつこのしお)もこの地に関係があると言われている[1][2]。
南北朝時代、応仁の乱を経て戦国時代には、磯上氏の砦として二田城は存在していた[1][2]。
江戸時代の1646年に高台だった城を掘り下げ、その場所に蓮華寺を建立した。堀もあり、大門の地名も明治時代の地図に残っている[1][2]。堀は現在一部が暗渠として残っている[1][2]。
脚注
参考文献
- 泉大津市文化財保護委員会 『かわりゆくふるさと泉大津の歴史と文化』泉大津市文化財保護委員会、28-30頁。
- 辻川季三郎 『泉大津風土記』大栄印刷株式会社、233-235頁。
関連項目
二田城
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「物部神社 (柏崎市)」の記事における「二田城」の解説
物部神社背後の滝沢山には「二田城」と称される城跡が残る。この城跡は「二田城跡」として柏崎市の史跡に指定されている。 この城は、当初は物部神社の神官が「長橋城」として築き神領警備に使用したが、後世に上杉家武将の須田長義がこの城に移った際に「刈瀬城」と改めたという。そして子・須田長茂が三ツ山城へ移転したというが、いずれも年代は不詳。以上のほか、元井玄蕃頭が城主であるという伝を載せる文書もある。
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