亀徳しづ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/19 13:22 UTC 版)
亀徳 しづ(きとく しづ、1878年(明治11年)8月28日 - 1966年(昭和41年)10月12日)は、明治から昭和にかけて青森県八戸市で活動した助産師[1]。
経歴
日本聖公会の伝道師であった松下一郎[2]の長女として[3]、和歌山県に生まれる[1]。
東京の立教女学校(立教女学院中学校・高等学校の前身)に学んだが、卒業後は、父の赴任地であった青森県八戸町(後の八戸市中心部)に住んだ[1][4]。
八戸へ来てから程なくして、亀徳正栄と結婚し二児をもうけた[4][3]。1901年に生まれた次男である松下正寿は、長じて立教大学の総長を務めた[4][5]。
しかし、程なくして夫は出奔し、子どもたちを抱えて生計を立てなければならなくなった亀徳は[4]、25歳の時(1903年ころ)助産婦となることを志し、1906年に番町に助産院を開き、さらに1908年に八戸産婆会を設立して、助産技術の近代化に尽力し、地元の人々から「西洋産婆」と愛称された[1]。
八戸聖ルカ教会には、1934年に礼拝堂新築に際して亀徳が寄贈したリードオルガンが残されている[3]。
小説家の三浦哲郎は、亀徳をモデルにした小説『しづ女の生涯』を発表した[1]。1981年には、この小説を原作とする昼の連続テレビドラマ『しづの生涯』が放映された[6]。
脚注
- ^ a b c d e 「亀徳しづ」『20世紀日本人名事典』日外アソシエーツ 。コトバンクより2025年7月19日閲覧。
- ^ 「松下 正寿」八戸市。2025年7月19日閲覧。
- ^ a b c 「日本聖公会 東北教区 八戸聖ルカ教会 (PDF)」八戸聖ルカ教会。2025年7月19日閲覧。
- ^ a b c d 太田原慶子「郷土の先人⑯ 母子に愛をそそいだ「西洋産婆」 亀徳しづ(きとく しづ)」『青森 県立郷土館だより』(PDF)、第137号2006年7月1日、3面。2025年7月19日閲覧。
- ^ 「亀徳しづ」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』講談社 。コトバンクより2025年7月19日閲覧。
- ^ 亀徳しづ - テレビドラマデータベース
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