久埜茂とは? わかりやすく解説

久埜茂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/28 18:28 UTC 版)

久埜茂

久埜 茂(くの しげる、1884年明治17年)10月 - 1970年昭和45年))は、日本の逓信官僚弁護士。元逓信省郵務局長。

経歴

鳥取県会見郡西福原村(現米子市西福原)出身。久埜龜吉の長男[1]

米子中学(現米子東高校)、岡山の第六高等学校を卒業。次いで上京し東京帝国大学法科大学法律学科(獨法)へ入り1911年明治44年)卒業[1]文官高等試験に合格し逓信省に入る[1]。以来、通信事務官補、逓信局事務官補、逓信局副事務官兼戦時船舶管理局事務官、管船局書記官、逓信書記官兼高等海員審判所審判官、台湾総督府交通局参事、逓信大臣官房秘書課長同監察課長、広島逓信局長、逓信省郵務局長兼逓信官吏練習所長などを歴任した[1]

1936年昭和11年)3月に退官[1]。同年5月、逓信省主導で設立された九州北部の発電会社西部共同火力発電(本社は東京)の代表取締役常務に就任し、1939年(昭和14年)4月の会社解散まで在任した[2]。その後弁護士となり、米子に帰って開業する。のち再び上京して東京で亡くなった。

人物像

茂は25年間、逓信省に在職したが、その間、有給休暇を一度もとらず、自身の結婚式のときでさえ、本人の写真を飾って花婿不在の式を挙げたという[3]

宗教浄土宗[1]

家族・親族

久埜家

鳥取県米子市西福原

久埜家は西伯郡福米村の名門だった。昔からこの地方の人は「久埜の智慧すじにはかなわん」といった。茂の弟たち(勉、昇、卓)もまた東大法科を出た。久埜の四人兄弟は郷党の間でも有名だった。

脚注

  1. ^ a b c d e f 『人事興信録』第13版、人事興信所、1941年、ク9頁。NDLJP:1070509/616
  2. ^ 伊地知俊吉・前田平八郎(編)『西部共同火力発電株式会社史』、九州水力電気東京出張所、1941年
  3. ^ 近代史を飾った 西部人物伝
  4. ^ a b 『人事興信録』第8版、人事興信所、1928年、ク10頁
  5. ^ 久埜龜吉”. とっとりデジタルコレクション. 2022年6月13日閲覧。
  6. ^ 『人事興信録』第8版、キ17頁

参考文献

  • 『財界人物選集』1939年 237頁
  • 『勝田ヶ丘の人物誌』2000年 37-39頁

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