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中谷泰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/05 08:16 UTC 版)

中谷 泰
1960年の中谷
生誕中谷泰一
(1909-05-20) 1909年5月20日
三重県松阪市
死没1993年5月31日(1993-05-31)(84歳)
国籍 日本
教育春陽会洋画研究所
著名な実績洋画
選出 日本美術会(会長)

中谷 泰(なかたに やすし/なかたに たい、1909年5月20日 - 1993年5月31日)は、三重県松阪市出身の画家東京藝術大学教授。

人物

戦前、新文展で特選。春陽会会員となる。絵本画家のいわさきちひろに油絵を指導したことでも知られる。本名は中谷泰一(なかたにたいいち)。

戦後は、日本美術会の書記長を務めた美術評論家水沢澄夫に誘われ、同会に入会。春陽会や、日本アンデバンダン展(日本美術会主催)、平和美術展(美術家平和会議主催)にも作品を出品した。その後、日本美術会代表、東京藝術大学美術学部教授、財団法人いわさきちひろ記念事業団理事長、日本美術会附属美術研究所「民美」所長を歴任した。

戦前から挿絵も手がけ、坪田譲治の名作児童文学『善太と三平』(童話春秋社、1940年)の挿絵を皮切りに、戦後のNHKラジオドラマ番組「光を掲げた人々」をもとにした「光を掲げた人々」シリーズ全12巻(光の友社、1954年)の多くで挿絵を担当。

1950年代から1960年代初頭にかけて、『美術手帖』『アトリエ』『芸術新潮』などに油絵の手引きや、美術論などを寄稿した。

国立近代美術館に「炭坑」(1956年)、「陶土」(1958年)、「陶土」(1960年)が、神奈川県立近代美術館に「実らぬ稲」(1954年)、「漁婦」(1959年)が、愛知県美術館に「石切山」(1961年)が、三重県立美術館に「風景」(1930年)が[1]、「炭坑町」(1958年)などがいわき市立美術館[2]、「常滑」(1983年)、「陶器の町‐常滑‐」(1982年)などが常滑市[3]所蔵されている。

日本共産党文化後援会代表委員を務めたことがある[4]

経歴

春陽会に依拠して

  • 1909年5月20日、三重県松阪市に生まれる[5]
  • 1929年3月上京、川端画学校に入り石膏デッサンを始める[5]
  • 1930年、第8回春陽展(春陽会)に出品した「街かど」が初入選する[5]
  • 1931年9月、東京・内幸町の春陽会洋画研究所に研究生として入所[5]
  • 1939年、新文展で特選[5]。春陽会会友に推挙される[5]
  • 1942年、第20回春陽展に「窓外風景」、「婦人像」、第5回文展に「水浴」を出品し、特選となる。同年、春陽会洋画研究所の移転に伴って、退所して、以後木村荘八に師事する[5]いわさきちひろに油絵を教える。
  • 1943年、第21回春陽展に「農家の人々」、「憩い」、「山ざと」、「楽人」を出品し、春陽会会員に推挙される[5]
  • 1944年、いわさきちひろ姉妹らと勃利(中国黒龍江省)へ渡る[6]
  • 1945年、兵役に従事[2]。敗戦を迎える。

戦後民主主義のなかで

  • 1951年、第28回春陽展に「パンをとる子供」、「花」、「毛糸をたばねた静物」、「えんどうとパン」、「さかなの静物」を出品。同年2月、はじめて第4回日本アンデバンダン展(日本美術会主催)に「静物」を出品し、美術評論家水沢澄夫のすすめで、日本美術会に入会[7]、以後毎回同展に出品する。
  • 1953年,第2回平和美術展(美術家平和会議主催)に和歌山県・有田川の水害被災者を描いた「流田」を出品[8]
  • 1954年、第31回春陽展に「農民の顔」、「漁港」、「静物」を出品。同年5月、第1回現代日本美術展に「さかな」「実らぬ稲」を出品する[5]
  • 1955年、日本美術会や平和美術展などの画家仲間と各地を回る。同年冬、佐藤忠良の先達で、常磐炭坑鳥居敏文朝倉摂森芳雄、吉井忠、竹谷富士雄、西常雄、岩松光一郎らと旅行[5]
  • 1956年、第33回春陽展に「炭坑」、「起重機」、「朝顔」を、第2回現代日本美術展に「疲れ」、「炭坑」を出品した[5]
  • 1959年、日本国際美術展で優秀賞[2]

日本美術会役員、東京芸大教授を歴任

  • 1966年2月、日本美術会総会で代表に選出。事務局長に谷内栄次[9]
  • 1967年2月、日本美術会総会で代表に選出。事務局長に滝平二郎。1969年2月まで同じ体制[9]
  • 1969年2月、日本美術会総会で代表に選出。事務局長に渋谷草三郎[9]
  • 1971年1月、東京藝術大学美術学部教授に任命された[5]ことを受けて、同年5月、日本美術会の代表を退任[9]
  • 1976年6月、いわさきちひろ記念事業団理事長に就任。1991年4月まで。
  • 1977年、第54回春陽展に「陸橋」を出品。同年3月、東京藝術大学を定年退官、同年4月同大学陳列館で退官記念展を開く[5]
  • 1988年4月、三重県立美術館で中谷泰展開催[5]
  • 1989年6月、第31回日本美術会総会で、附属の美術学校「民美」研究所長に選出[9]
  • 1990年、民美研究所長として指導にあたる。翌1991年まで[9]
  • 1993年5月31日、死去。
  • 1995年、三重県立美術館県民ギャラリーで「中谷泰展〜所蔵品による」開催[5]

著書

図録・画集

  • 『中谷泰展』(三重県立美術館、1988年)
  • 『中谷泰画集』(山口泰二編、三好企画、2000年)

挿絵・装画を描いた出版物

  • 『善太と三平』(坪田譲治、童話春秋社、1940年)
  • 『たのしいクリスマス』(小峰書店、1950年)
  • 『文章のはなし』(古谷綱武、小峰書店、1951年)
  • 『水の子ものがたり』(キングスレイ原作、三井嫩子、小峰書店、1951年)
  • 『三びきのこぶた』(小峰書店、1951年)
  • 赤い鳥童話名作集 3・4年生』(坪田譲治他編、小峰書店、1951年)
  • 『ゆりかごものがたり』(楠山正雄、小峰書店、1952年)
  • 『三年生の赤い鳥』(鈴木珊吉ほか、小峰書店、1954年)
  • 『四年生の赤い鳥』(鈴木珊吉ほか、小峰書店、1954年)
  • 『光を掲げた人々 2、3、4、5、6、8、9、10、12』(日本放送協会、光の友社、1954年-1955年)
  • 『子どもの生活読本』(滑川道夫監修、光の友社、1955年)
  • 『昔話風土記百選』(民族童話研究会、小峰書店、1955年)
  • 『五年生の赤い鳥』(鈴木珊吉、小峰書店、1955年)
  • 『赤い鳥代表作集 3(後期)』(与田準一、小峰書店、1958年)

解説を描いた他の画家の作品集

脚注




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