河西昌枝とは? わかりやすく解説

河西昌枝

(中村昌枝 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/09 14:01 UTC 版)

河西 昌枝
Masae Kasai
1位表彰台に立つ1964年東京オリンピック全日本女子バレーボールチームキャプテン・河西昌枝(Masae Kasai standing in the center of podium as the captain, 1964 Tokyo Olympics Women's Volleyball)
基本情報
国籍 日本
生年月日 (1933-07-14) 1933年7月14日
出身地 山梨県中巨摩郡(現在の南アルプス市
没年月日 (2013-10-03) 2013年10月3日(80歳没)
ラテン文字 Masae Kasai
身長 174cm
体重 63kg
選手情報
愛称 ウマ
ポジション セッターセンター
利き手
獲得メダル
バレーボール
オリンピック
1964 東京 女子
世界選手権
1960 リオデジャネイロ 女子
1962 モスクワ 女子
テンプレートを表示

河西 昌枝(かさい まさえ、結婚後の姓は中村、1933年7月14日 - 2013年10月3日)は、日本の元女子バレーボール選手。東洋の魔女 (Oriental Witches) [1]の主将。金メダリスト

来歴

山梨県中巨摩郡(現在の南アルプス市)の出身。山梨県立巨摩高等学校卒業後、日紡に入社する。

河西は『東洋の魔女』の主将として1962年世界選手権優勝、1964年東京五輪でコーチ兼主将として優勝に大いに貢献した。ポジションはセッターで、長身を生かして前衛ではセンタープレーヤーも務めた[2]

1965年1月に日紡を退社。同年5月30日に当時の総理大臣である佐藤栄作の取り計らいで2歳年上の自衛官と結婚した。

選手のファンであった女優の淡島千景がオーナーとなって設立したバレーボールのクラブチーム「フジクラブ」にも参加、同クラブの中心選手として活躍した[3](フジクラブは国民体育大会バレーボール競技一般女子の部において、1965年1966年と二連覇した。1968年頃までには活動を終えたという[3])。またその後は、ママさんバレー教室の講師も務め、普及に尽力した[3]

2003年3月に日本バレーボール協会の女子強化委員長に就任し、 2004年アテネ五輪では全日本女子チームの団長(チームマネージャー[4])を務めた。

2008年バレーボール殿堂入りを果たした。

2013年10月3日、脳出血のため東京都内の病院で死去。80歳没[3][5]

人物・エピソード

  • 1962年の世界選手権対ソ連戦で、1セット目を先取され皆が意気消沈していると、河西は前田豊団長に「あの程度の相手なら必ず勝ちます」と言い放ち、平然とプレーを続けたという。コート内で冷静な判断を行える司令塔がいたことが東洋の魔女の強みでもあった。
  • 周囲が目を覆うような過酷な練習が続いた日々の中、結婚を先延ばしした河西は大松博文監督へのささやかな抵抗として、爪を伸ばしていた[6]
  • 「バレーボールの応援団長」を自任し、オリンピックの際には自費で現地に駆けつけ応援したという[3]

球歴

所属チーム

関連作品

脚注

参考文献

  • VOLLEYBALL(日本バレーボール協会機関誌)1964年10月号 44-45ページ

外部リンク





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「河西昌枝」の関連用語

河西昌枝のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



河西昌枝のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの河西昌枝 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS