中冨三郎とは? わかりやすく解説

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中冨三郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/28 07:10 UTC 版)

中冨 三郎(なかとみ さぶろう、1876年明治9年)2月 - 1957年昭和32年)3月17日)は、日本実業家久光製薬の前身にあたる久光合名会社の創業者であり社長である。

平成31年3月28日、中冨記念くすり博物館に銅像が建立された[1]

略歴

基肄郡田代村(現佐賀県鳥栖市)出身。久光与市の三男として誕生した。

1903年(明治36年)12月10日、佐賀県三養基郡田代村大字田代又203番地において、兄弟(安次郎・友三・伍郎)とともに久光兄弟合名会社を設立、代表社員となった[2]

1905年(明治38年)、旧筑後国久留米藩士族中冨家の養子となり、中冨姓となった[3]。和紙に薬剤を展延した膏薬づくりを研究し、1907年(明治40年)に「朝日万年膏」を改良し、ついで健胃下剤の「快復丸」、消炎鎮痛の「アスピリン丸」、感冒薬の「赤龍丸」などを開発し、朝鮮中国台湾などへ販路を拡大。家内工業的なそれまでの製薬業の近代化につとめ、1919年(大正8年)には電動化による機械生産を始め、店舗と配置業者の両者へ出荷できる仕組みを整えた。

田代売薬の主力製品である膏薬は従来、黒褐色であったが、中冨は白い消炎貼付薬の研究開発につとめ、1934年(昭和9年)にそれ以後同社の看板商品となる「サロンパス」を開発した。サロンパスを開発したことにより需要が飛躍的に拡大した。その後、長男である中冨正義に4代目社長の座を譲った。

人物

いいことをしても人に知れれば直ぐになくなるをモットーに、人のいないところで善行を心掛け、形のない貯蓄をせよというお客様第一の隠徳精神の持ち主だった[4]

脚注

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