与那覇勢頭豊見親のニーリ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/28 05:01 UTC 版)
「与那覇勢頭豊見親」の記事における「与那覇勢頭豊見親のニーリ」の解説
一方で、多良間島に残されていた「与那覇勢頭豊見親のニーリ」という神歌では、「宮古の島立ての頃、優れた人がいないので、統治する人がいないので、それでは私が出てみようと、それでは私が統治しようと、出世して島を治め、名高い豊見親といわれていたが、ねたむ者が多く、にくむ者がたくさん出て、ねたむ者にねたまれ、にくむ者ににくまれ、後生に落ちてしまった、死後の世界に落とされてしまった、 -中略- まだ二十才の頃に、まだ希望にもえる頃に -中略- にいら天太のお情けで、豊見親は綱をたどり宮古島に帰った」と歌われている。ニーリは、その後与那覇勢頭豊見親が立派な統治者になったと歌っている。 ほとんどの伝承も同様で、真佐久が白川浜を出発するのは瀕死の重傷から奇跡的に回復した後としている。そのためか、後世に編纂された資料では、これを佐多大人と目黒盛豊見親が戦った「与那覇原いうさ」(1400~1408年頃)による受傷とするものが多い。 しかし、ニーリに歌われた受傷の原因は「ねたみ」や「憎しみ」によるものであり、様々な史料が与那覇勢頭豊見親の中山朝貢を1390年と記載していることからも、時代の整合性がとれない。時代の近い史料に、佐多大人と与那覇勢頭豊見親の関係を記したものは無い。 このため、最近の文献研究では、宮古島主長与那覇勢頭豊見親は佐多大人率いる与那覇原軍に殺害され、まだ幼い孫の大立大殿を目黒盛に託したのではないかという説が有力である。
※この「与那覇勢頭豊見親のニーリ」の解説は、「与那覇勢頭豊見親」の解説の一部です。
「与那覇勢頭豊見親のニーリ」を含む「与那覇勢頭豊見親」の記事については、「与那覇勢頭豊見親」の概要を参照ください。
- 与那覇勢頭豊見親のニーリのページへのリンク